街歩き
隅田川七福神めぐり
2006.01.03歩く
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吾妻橋 東武鉄道浅草駅を出て隅田川に架かる吾妻橋を渡る。ここが今日の出発点。橋の手前の袂からは水上バスが運行されている。隅田川に架かるそれぞれ特徴のある橋を眺めながら浜離宮、日の出桟橋とお台場へ往復している。 |
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アサヒビール 何かと話題になったモニュメント。今日のコース、終着点の堀切駅をスタートにして逆コースにすればちょうどここで打ち上げとなったはず。そういえば七福神巡りをしている人は、すれ違う人が圧倒的に多かった。ま、それは別の機会にして今日はまじめに出発しよう。 |
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六面地蔵塔 江東区役所の東側に如意輪寺がある。民家の佇まいと変わらないので分かりづらく、界隈を一回りして探した。 天台宗のお寺で、嘉祥2年(849年)慈覚大師の創建と伝えられるお寺。本堂の軒先に珍しい六面地蔵塔があった。六角形の石塔の各面に半肉彫りした地蔵像が彫られたもので、延宝6年(1676年)4月13日の銘があり、信心深い両親の菩提を弔い、合わせて「法界平等利益」を願って、造立、奉納されたものといわれている。 |
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勝海舟像 一旦吾妻橋まで戻って橋の手前を右に入ると隅田公園が続く。桜の名所として知られているが、4代将軍家綱がここに桜を植えたのが始まりで、その後代々の将軍に受け継がれ、特に8代将軍吉宗が本格的に桜並木を作り、以来江戸庶民の憩いの場として今に至っている。 公園を入って200mほど先に勝海舟の銅像が建てられていた。勝海舟は文政6年(1823年)1月30日、今の両国4丁目の生まれ。戊辰戦争の折、幕府陸軍総裁として官軍の西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を実現して江戸の町を戦禍から守った。 勝安芳は明治以降の名前。 |
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堀辰雄住居跡 先に進んで枕橋を渡り、公園の東側に接する道路に面したところに堀辰雄の旧居跡がある。写真の赤い建物の所。 堀辰雄は明治37年(1904年)千代田区平河町に生まれたが、母の再婚により明治43年からこの地に住み通学、「聖家族」や「風立ちぬ」などの作品もここで執筆した。 |
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牛島神社 堀辰雄旧居跡から北へ200mほど行った左側にある。 祭神は素戔鳴尊。創建は慈覚大師。貞観2年(860年)慈覚大師が旅の途中行き暮れて、道の傍らの一草庵に入り寝ていたところ、夢に素戔鳴尊が現われ我に一宇の社殿を建てよと告げたという。 元は500mほど北の弘福寺の裏手にあったが、関東大震災後の墨提拡張工事のため現在地に移された。 |
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撫牛 境内の一角に牛の伏せている像があった。撫で牛といわれ、自分の体の悪いところを撫で、牛の同じところを撫でると良くなるという。まさに傷や病の手当てだ。早速足の悪いところを撫で、牛の同じところを撫でた。ついでに頭と顔を同じようにしたが、さてどうだろう。誰の願いも同じとみえて、そこのところだけがつるつるに光っていた。 堀辰雄は撫牛のことを、このように書いている。 |
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すみだ郷土文化資料館 牛島神社を出て、言問い通りを渡って水戸街道から1本隅田川寄りの見番通りを行くと左に資料館があった。平成10年に開館したもので、墨田区の歴史や文化を紹介していて、このコースを歩く予備知識として見て行くのに良い。 |
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三囲神社 資料館を出て見番通りをさらに先に行くと左に大きな鳥居があった。 祭神は宇迦能魂命。文和年間の頃近江三井寺の僧順慶が荒れた社を改築しようとしたところ、土中から白狐にまたがった翁の像が出てきた。そこに白い狐が現われその像を3周して姿を消したという。それから三囲神社といわれるようになったという。 隅田川七福神巡りはここからスタートする。境内別殿に大国( 大黒とも書く)神、恵比寿神が奉安されている。 |
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弘福寺 黄檗宗。宇治、黄檗山萬福寺の末寺。関東大震災で焼失したが、昭和8年(1933年)に再建された。萬福寺に模して作られた中国風の堂々とした建物。 ここでは布袋尊に参る。 |
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長命寺 萬福寺の北隣が弁財天を祀る長命寺。天台宗のお寺。3代将軍家光が鷹狩の途中で腹痛をおこし、この寺の井戸水で薬を飲んだところたちまち痛みが治まったので、この井戸水を長命水、寺の名前を宝寿山長命寺と名づけたという。ここの境内にも句碑や歌碑などが沢山あり、時間があれば一つ一つ見て回るのも楽しい。 |
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言問団子 長命寺を出て先の交差点を渡り、墨堤の方へ少し戻り気味に入ると言問団子がある。江戸末期の頃より文人墨客や花見客に渋茶と共に供され、今に至るまで向島の名物として人気がある。道を隔ててこれも名物の桜餅の店がある。 言問い団子の由来a> |
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白鬚神社 店内で団子を味わったら墨堤通りをさらに北へ向かう。およそ1kmほどで右手に白鬚神社がある。 祭神は猿田彦命。天暦5年(951年)慈恵大師が近江国から白鬚大明神を勧請したものと伝える。猿田彦命は道案内の守り神としてお客を案内することから、千客万来、商売繁盛の神として信仰を集めている。 七福神を決めるときに寿老人が見つからなかった。そこでこの神社のご神体の白鬚大明神を寿老人としてみたてた。それでここでは寿老神としている。 |
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向島百花園 白鬚神社を出て東へ200mほどのところに百花園がある。日本橋の骨董屋佐原鞠塢の別荘だったところで、数百本の梅や数々の草木が植えられ野趣豊かな庭園で、四季折々の花を楽しませてくれる。昭和13年に東京市に寄贈され、国の名勝、史跡となっている。 庭園入り口を入った正面に小さなお堂があり、福禄寿が祀られている。 |
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木母寺(梅若塚) 向島百花園を出てもとの墨堤通りを北へ、明治通りを渡ると左に東京都の高層住宅が並んでいた。この隅田川寄りの公園の中を行くと隅田川神社があり、次いで近代的なお堂の木母寺があった。天台宗のお寺で、貞元2年(977年)の創建で、忠円阿闍梨の開山と伝える。 入り口右手に戦災から免れた梅若伝説の梅若堂が、ガラス張りの鞘堂の中に保存されている。 梅若塚の由来 |
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榎本武揚像 木母寺を出て、高層マンションの9号棟と10号棟の間を通り抜け墨堤通りに出ると梅若碑の建つ梅若公園があり、その一角に榎本武揚像がある。 榎本武揚は幕末の幕臣。戊辰戦争のとき幕府海軍奉行として函館五稜郭に立てこもり抵抗するが結局降伏。このとき黒田清隆に助命され、後明治政府の逓信相、文相、外相、農商務相などを歴任。晩年は向島に住み、このあたりまで馬で散策したという。 商店街の前を行き、鐘ヶ淵の陸橋で通りを反対側に渡り北進する。鐘ヶ淵中の前あたりで右に入ると多聞寺がある。 |
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多聞寺 ここは向島村の北のはずれにあたるため、四天王で北を守護する多聞天を祀った(東は持国天、南は増長天、西は広目天)。山門は茅葺屋根で、本柱の前後に2本ずつの控柱を持つ四脚門で江戸前期の建立と伝え、墨田区では最古の木造建築という。 多聞天は七福神の毘沙門天のことで、弘法大師の作と伝えられている。 |
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多聞寺を出て東武鉄道の線路脇の道を北へ行くと隅田水門。この水門を渡ると堀切の駅だった。上を走るのが首都高速6号向島線。短い冬の日が今まさに落ちようとしていた。 |
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言問団子 当初は小豆あんと白あんの2個だったが、明治の中頃に黄色の味噌あんが誕生して団子3兄弟となった。 |