撫牛
おばあさんは私の家にくると、いつも私のお守ばかりしていた。さうしておばあさんは大抵私を數町先の「牛の御前」へ連れて行ってくれた。そこの神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥ていた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。「まあ何んて可愛いい目んめをして!」なんどと、幼い私はその牛に向って、いつもおとなの人が私に向って言ったり、したりするやうな事を、すっかり見やう見真似で繰り返しながら、何度も何度もその冷い鼻を撫でてやっていた。その石の鼻は子供たちが絶えずさうやって撫でるものだから、光ってつるつるしていた。それがまた私に何んともいへない滑らかな快い感觸を與へたものらしかった。
堀辰雄 幼年時代ー無花果のある家ー より
(注)堀辰雄の幼年時代は関東大震災の前であるから、牛島神社(牛の御前)は現在の場所ではなく、500mほど北の弘福寺裏にあった。
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