梅若塚(梅若山王権現堂)の由来

    絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のように伝えております。

 梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
 旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年(976年)3月15日なり。
 いまはの際に和歌を詠ず。
     尋ね来て 問はば応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
 このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
 あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り非歎の涙にくれける。その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。

同寺パンフレット 「木母寺略誌」より

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