言問団子の由来
●言問亭の栞より
その昔 右近衛中将在原業平朝臣 東国を旅行して武蔵に来たり 下総国との境を流れる隅田川で白い水鳥の鴎を見 渡守に其の名を問うて都鳥と聞くや ひとしお都恋しくて旅愁をそそられ
なにしおはばいざ言問はん都鳥我が思う人はありやなしやと
有名な和歌を詠んだ古事に感じ 弊店の祖先が現在の地に業平神社を建てて業平朝臣を祀りこの辺りを言問ヶ岡と稱うるに至った 元禄の頃比より江戸郊外の向島は四季折々の眺めに富んだので 文人墨客の散策するもの多く 偶々杖を曳く風雅の人の需めに応じて 手製の団子や渋茶を呈したのが そもそも弊店特製言問団子の由来で 江戸以来東京名所名物の一つとして今に伝承 皆様方の御贔屓を忝うしている次第であります
●矢田挿雲「江戸から東京へ」より
長命寺と言問団子
―――明治2年、いよいよやりきれなくなって、家族と相談し、堤上にささやかな茶店を開き、自分で団子をつくり、客に進めた。ところが長命寺の桜餅は、お豊の妹のお栄で相変わらず繁盛するに反し、爺さん婆さんが皺苦茶の手で捏ねる団子は、はなはだ不人望であった。その頃日に二升の粉を売りつくすことが出来ぬほど、微々たる物であった。
ところが、長命寺内の隠士花城翁は、かねて植佐老人を愛し、団子屋開店以来は毎日訪ねて、茶飲み話をした。ある時、店頭の閑散を見かねて、
「業平の故事に因んで、言問団子とでもつけたらば、人が珍しがるかも知れないね」
と教えた。そしてその由来を戯文につくって、植佐老人に与えたから、植佐老人はなんだか大した名案とも思われないが、ともかくその文章を額に仕立てて、店へかけておいた。すると折々腰をかけるお客様が、茶碗の底をさすりながら、この額を仰ぎ見て、
「なあるほど、そういう古い由緒があったのかい、このまずい団子には?」
といって、おかわりを命じた。言問団子はメキメキ売り出した。
言問団子の名は、明治初年の江戸っ子の頭へ、徐々にしみこんだ。
「業平朝臣が、その団子のこさえ方を、授けて行ったのかい。お公卿さんなんて、いろんなことを知ってるもんだね」
というように、早合点をするものもできてきた。植え佐老人、大ホクホクで、居宅の前へ2間ばかりの座敷を新築し、上がって食べられるようにした。――― 矢田挿雲 「江戸から東京へ」全9巻 (S50中公文庫復刻版)
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