い ね
イネ 稲 伊祢 穂 早稲 など
にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを 外に立てめやも 14−3386 東 歌 誰そこの 屋の戸押そぶる 新嘗に 我が背を遣りて 斎ふこの戸を 14−3460 東 歌 イネ科 イネ属 日本人の主食である稲は、中国長江下流が原産地で、わが国には紀元前4世紀頃北九州地方に伝来したとされています。福岡県板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡からは縄文時代晩期の水田跡が見つかっています。 栽培方法は、当初は田んぼに直播であったが、奈良時代より一旦苗代に播き、そこで育った苗を田んぼに植え替えるという現在の方法に変わっていきました。この頃両方の方法で行われていたことが万葉集歌からも伺えます。 秋、収穫期を迎えると、その年最初に収穫した新米を神前に供え、神に感謝する新嘗の祭りが行われました。この日は一晩その家の未婚の女性が籠り、祭りを行うことになっていて、家族の者は全員外に出て夜を明かしていました。 そんな時恋人が訪ねてきたらどうするでしょうか。それでも外に待たせておくことができるでしょうか。「いえ、そんなことは出来ないわ」というのが3386の歌です。(歌意(にほ鳥の)葛飾早稲をお供えして、斎みこもる晩でも あのいとしい人を外に待たせておくことができようか。) また、未婚の女性がいない時はその家の主婦が籠っていました。その時亭主たちはどうしていたのでしょうか。戸外で行われる集まりに参加して酒盛りでもしていたのかもしれません。そうと知ってこっそりと忍んでくる男もいたようです。それを咎めているのが3460の歌です。(歌意 誰ですか この家の戸を揺するのは 新嘗に夫を送り出して 忌こもるこの家の戸を) いつの時代にも過去の風習を打破するのは若者だったようですね。 |