ま  つ

マツ   松 麻都 末都



磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへりみむ
                2ー141 有間皇子

磐代の 崖の松が枝 結びけむ 人はかヘリて また見けむかも
                2−143 長忌寸奥麻呂

後見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを また見けむかも
                2ー146 柿本人麻呂

 松は古くから村の境、国境、峠の上、海岸などに植えられていた。
 人々が旅立つにあたってはこの松に待つをかけて、旅の道中の安全と、無事帰ってこられることを願って魂を結んでいったという。その魂が自分を呼んでくれ、帰路その魂を回収しつつ同じ道を無事帰ってきたという。(古橋信孝 誤読された万葉集)

   しかし、道中何らかの事故で帰宅できず、その魂も回収できずにいた人も少なからずいたのではないだろうか。141の歌の作者有間皇子もそのうちの一人だった。

 斉明天皇と中大兄皇子が紀の湯へ行幸しているとき、中大兄皇子の意を受けた蘇我赤兄の言葉に乗せられて、謀反をしたとの疑いをかけられ、その赤兄によって捕らえられ、紀の湯に護送される途次磐代の浜で詠んだのがこの歌である。

 歌意は、磐代の浜松の枝を引き結んで、幸い無事であったらまた帰ってきて見よう。

 有間皇子は天皇の前で、真実は天と赤兄が知る、と言って身の潔白を訴えるが、疑いは晴れず、帰途藤白の坂で処刑される。

 この事件は後の人々の深い同情を誘った。40年ほど後、文武天皇紀の湯行幸に随行した長忌寸奥麻呂の詠ったのが143の歌。歌意は、磐代の崖の松の枝を結んだという有間皇子は、立ち帰ってまた見たであろうか。
 その後柿本人麻呂も同じように、後に見ようと、皇子が結んでおいた磐代の松の梢をまた見たであろうか、と詠っている。

 藤白の坂は、磐代の浜よりも大和に近いところ。同じ道を護送されたとしたらこの松は見ていると思われるが、どんな思いで見たのだろうか。

   松はマツ科の常緑高木。クロマツとアカマツに代表されるが、アカマツは山野に多く、クロマツは海岸付近に多い。

 
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