国宝・金錯銘鉄剣


    昭和53年、稲荷山古墳から出土した鉄剣を調査していた元興寺文化財研究所は、この錆びた剣にレントゲン線を照射し、錆びの下にあった115の金文字を発見した。
この銘文は、わが国の古代国家の様子を知る上で、大変貴重な資料として、当時世紀の大発見として騒がれた。 その後錆を丹念に落とす作業が続けられ、美しい115の金文字が甦った。現物はチッソガスで密封したケースに納められ、資料館に展示されている。
金文字で書かれた115文字の内容は次の通り。資料館の説明板による。

(表面)
辛亥の年 7月に記す 私はヲワケの臣 いちばんの祖先の名はオホヒコ その子はタカリノスクネ その子の名はテヨカリワケ その子の名はタカヒシワケ その子の名はタサキワケ その子の名はハテヒ
(裏面)
その子の名はカサヒヨ その子の名はヲワケの臣 先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として大王に仕え今に至っている ワカタケル大王(雄略天皇)の役所がシキの宮にある時 私は大王が天下を治めるのを補佐した この何回も鍛えたよく切れる刀を作らせ 私が大王に仕えてきた由来をしるしておくものである

辛亥の年( 西暦471年) 。獲加多支鹵大王。寺(役所)在斯鬼宮(斯鬼は奈良県磯城郡、初瀬朝倉宮があった所) 。等の文字からワカタケル大王は雄略天皇とされている。
また、それ以前に熊本の江田船山古墳から発掘された太刀にも同じような銘があったが、こちらは文字の一部が欠けており判読できなかったが、稲荷山古墳の鉄剣が出たところから、同じワカタケル大王と推定されている。
 江田船山古墳の太刀銘 「獲□□□鹵大王」

これらのことから見て、当時の大和朝廷は、九州から関東まで相当広く治世下においていたものと思われる。その大王の親衛隊長を勤めていただけに古墳の大きさもなるほどとうなづける。
ところで、雄略天皇。日本書紀などを読んでみると相当残酷な天皇だったようだ。同母兄など次々殺して天皇になるが、その後も猜疑心が強く、部下のちょっとした言動に対しても激怒して焼き殺したりしたようだ。そんな天皇に信頼されていたヲワケの臣、どんな人物だったのだろうか。

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