高 水 三 山
高水山、岩茸石山、惣岳山。これらの山を称して高水三山といっている。いずれも700m台の小さな山だが、奥多摩の入口に当たる所、多摩川の流を挟んで御岳山と相対してでんと構えている。 全国に何とか三山と呼ばれている山は数多くある。白根三山、鳳凰三山、越後三山。良く知られているものだけでもざっと数えたら30ほどあった。その土地で呼ばれているものを含めたらおそらく100は下らないだろう。私の故郷にも大和三山(畝傍山、耳成山、天香久山)というのがある。ここ奥多摩にも他に、奥多摩三山、戸倉三山がある。三山というのはその土地(山域)を代表する山とみていいのだろう。 ところでこの高水三山という呼び方はいつ頃、誰が言い出したのだろうか。宮内敏雄著の「奥多摩」(昭19年刊)を見ていたら、「遉に高畑棟材氏の創唱らしい雅やかな適切な表現だと思ふ。」とあったので、遡って高畑棟材著の「山を行く」(昭5年刊)を開いたら高水三山の項があり274頁から10頁に亘って詳しく紹介されている。おそらくこの頃から東京から日帰りのできる手頃な山としてその名とともに親しまれていたのだろう。今でもそれは変わらない。家族連れでも安全に歩ける山として、そして登山入門、奥多摩入門の山として親しまれている。 |
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高水三山へはJR軍畑駅が出発地となる。高水山の頂上直下にある常福院の表参道を行き、先ず常福院にお参りしてから背後の高水山、岩茸石山、惣岳山と辿るのが一般的のようだ。今も昔も変わらない。そのことは高水三山のネーミングからも伺える。しかし、この順路だと膝を痛めている私にとっては最後の急な下りが少々つらい。そこで私たちは逆コースをとって御岳駅から歩くことにした。 御岳駅を出て左へ。御岳山ケーブル行きのバス乗り場を右に見てすぐ左の道を入る。青梅線の踏切を渡ると正面に慈恩寺。登山道はお寺の脇から登っている。 |
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いきなり急な斜面を行くが、道は大きく折り返して付けられているのと、御岳から岩茸石山を経て棒の折山へは首都圏自然歩道になっているのでよく整備されていて歩きよい。 道はやがて惣岳山から南下する尾根上に出てゆるやかになった。振り返ると御岳山の山上集落が手にとるように見える。 |
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途中尾根上を2本ほど送電線が横切っている。その鉄塔の下が明るく切り開かれているので、グループでの一休みに良い。 道はやがて杉や檜の樹林帯に入り、中でも2本の大きな杉の根方に祠があった。その下に小さな窪地があった。井戸窪(青井戸とも)といわれており、清冽な水が湧き出していて柄杓が添えられていた。 道はここから二手に分かれていて、右は惣岳山を巻いていくもの。惣岳山へは左の尾根を登る。ほんの一息で頂上に着いた。 頂上には青渭神社があった。境内は小広く開かれていて休むのにはいいが、四囲は杉や檜の巨木に囲まれていて展望は得られない。 |
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青渭神社は延喜神名式に登載された古い神社だが、現在論社としてここ惣岳山と、調布市深大寺、稲城市に3社ある。当時の交通事情や人の流れは想像するしかないが、他の2社に比べてずいぶん人里から離れていて違和感を感じないでもない。 青渭の渭は黄河に注ぐ水のきれいな川の名。そこから清冽な水の意を表していて、先の井戸窪に湧き出す水からその名の由来があるのかもしれない。 元は本殿や拝殿、鳥居などいくつかの建物があったようだが、ことごとく焼失。その後本殿だけが再建されたのであろう。四囲の欄間には見事な彫刻が施されている。祭神は大国主命。何を何から守ろうとしているのか、頑丈な金網で囲われており艶消しだ。 お昼までまだ少し時間があったので、お弁当は次の岩茸石山で開けようと、少し休んだだけで私たちは腰を上げた。 |
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惣岳山の北面は露岩の重なる急な斜面で、木の根岩角につかまりながら慎重に下った。下りきったところで先ほどの井戸窪のところから東面を巻いてくる道と合わさり、平らな尾根道となった。行く手には岩茸石山とそこから高水山への稜線が見えている。 この山、岩茸の採れる岩があるところから岩茸石山といわれるようになったが、またの名を御巣鷹山とも呼ばれていたようだ。各地にある同名の山と同じく、江戸時代鷹狩りに使う鷹の幼鳥を飼育していたところで番人もいたという。 |
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道は登りに転じるところで、ここでも二股に分かれていた。右は巻き道。左は頂上への道。やや急な登りを一頑張りすると岩茸石山の頂上に着いた。さほど広くはない頂上に、先着の登山者が思い思いにお昼を楽しんでいた。 南側は樹林で展望はさえぎられているが、北側は大きく開け、武甲山をはじめとして秩父や奥武蔵の山々を見渡すことができた。 私たちも空いているところを見つけて腰を下ろし、お昼にした。まずは乾杯。Mさんのザックからは次々と美味しそうな手料理が出てくる。それを肴にいただくほんの少々のアルコール。眼前の山並みを眺めながら今日も至福の一時を過ごす。 それにしても、途中すれ違った人は何人もいが、追い越す人も追い越される人もいなかったのに、こんなに多くの登山者を見ると、やはり私たちのように逆コースを歩く天邪鬼はいないようだ。お昼を終えて下山する人たちも私たちが登ってきた方へ下っていった。 |
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食後の暑いコーヒーをゆっくり味わった後、私たちも次の高水山へ向かった。 土留の階段と露岩交じりの下りを慎重に下っていると、足元に変わった形の花を見た。あちらこちらにポツポツと出てくる。ヤマジノホトトギスだ。 高水山は小さいながら春にはいろんな花が咲くことで知られている。花と山の好きな劇作家で、花の百名山の著者でもあった田中澄江はこの山を愛し、自分の故郷の山と言って何度も通ったという。女性だけで作った山の会の名前に高水会とつけ、1回目の山行を高水山にするほど入れ込んでいたようだ。 今は夏と秋の端境期。花は少なくそのためにこの花特に目を引いた。 |
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数少ない花を楽しんでいるうちに程なく高水山に着いた。頂上は狭く、樹木が生い茂り展望は得られない。ベンチ替りの木が何本か横たわっていた。ここにも金網があって中にはアンテナ塔があり、少々目障りだった。 ここではほんの一息入れただけで下りにかかると、すぐに木の間隠れに常福院不動堂の屋根が見えてきて、境内の一角に降りついた。 高水山常福院は、智證大師の開山による真言宗の古刹。本尊は浪切不動明王。 お寺の縁起によると、仁寿3年(853年)、智證大師が渡唐の折海が荒れて琉球国まで流されるという危難にあった。このとき大師が瞑目して不動尊を念じたところ、明王舳に立って剣で波を切って危難を救ったという。そこで帰国後不動明王像を彫ってここに安置したという。仁寿3年といえば平安時代初期。ずいぶんの古刹だ。 鎌倉時代には畠山重忠なども信仰を寄せ、重忠の太刀や常盤御前の鏡なども寄進されたと伝える。 ところで高水山の名前の由来だが、この辺りに白糸の滝、五段の滝、精進ヶ滝、舛ヶ滝他四十八滝があり、高山にこのような流水があるところから高水山と呼ばれるようになったという。 しかし今周りを見てもそのような滝があるとは思われない。でも、落差1m余り、水道の蛇口から流れ落ちているようなものでも滝不動などと称しているところもあるくらいだから、この山間を流れる成木川や平溝川を丹念に探せば、いくつかは数えられるかもしれない。 |
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私たちはここで最後のお参りをし、今日1日の山行の無事を感謝して、この静かで、好ましい佇まいの、お寺を後にした。 山門のすぐ近くに駐車場があり、車道がここまできているが、私たちは古くからの参道を下った。道は細い山道だが、歩き良い緩やかな下りとなっている。やがて左へ急な斜面を一下りすると大きな堰堤のある沢に出た。堰堤の横の階段を下ると車道に飛び出した。 ここまで来てほっと一息つき、今日の山行を振り返った。こうして気心の知れた親しい山仲間とともにした1日の山旅を終え、余韻に浸る時ほど幸せなものはない。 やがて右から平溝川に沿ってくる道と合流し、さらに上成木の方から来る道と合流するとまもなく青梅線の鉄橋が見えてきて軍畑の駅はすぐだった。 |
2007.9.15歩く 高水山 759m 岩茸石山 793m 惣岳山 756m |