街歩き


日本橋七福神とその界隈を歩く


2008.1.3歩く

コ ー ス  徒歩2時間
東京メトロ半蔵門線水天宮前駅(1分)水天宮(3分)松島神社(6分)茶の木神社(8分)小網神社(15分)末廣神社(5分)笠間稲荷神社(15分)椙森神社(10分)宝田恵比寿神社(7分)十思公園・小伝馬町牢屋敷跡(30分)日本橋(20分)JR東京駅

日本橋七福神めぐりは珍しく神社ばかり。七福神ながら、恵比寿神が椙森神社と宝田恵比寿神社にあるので全部巡ると八社詣でとなる。比較的近くにあり1時間程度で回れるので、近くの史跡などと組み合わせて回るのも良い。



東京メトロ・水天宮前駅
地下鉄半蔵門線水天宮前駅で降り、5番出口を出ると水天宮の交差点。水天宮はこの角にある。

水天宮
総本社は福岡県久留米市にある。文政元年(1818年)に久留米藩主有馬頼徳が港区三田赤羽橋にあった江戸上屋敷に分社したのが始まり。その後明治維新の際、新政府に藩邸を没収され、明治5年に現在地に移った。
水天宮は初め水難防災の神として祀られたが、あるとき妊婦がここの鈴の緒を授かって腹帯としたところ安産だったので、安産で知られる犬にあやかって、戌の日に腹帯を授けたところ、安産祈願の参詣者が増え、今では安産の神として知られるようになった。

弁財天
七福神の一つ弁財天は水天宮境内にある5つの末社の一つ中央弁財天に祀られている。
これも元は久留米藩下屋敷にあったもので、有馬頼徳が加賀の前田公と能の芸を競ったとき、願掛けをしたところ見事に勝利したした。その後学業や芸事、財福にご利益があるといわれ、参詣されるようになったという。

松島神社
元の交差点に戻り、新大橋通りを右に進んで次の信号を左に入るとすぐ右手、ビルの1階に七福神の大国神を祀る松島神社がある。
鎌倉時代はこの辺り入海で、松島神社の名の示すとおり、入海に浮かぶ小島に勧請されたもの。夜毎掲げる灯火によって、舟人は航海の安全を得たという。祭神は大国神のほか全部で14柱と他と比べて圧倒的に多い。これは江戸時代にこの辺りを埋め立てて武家屋敷を造る際全国から職人が集められたが、その人たちがそれぞれの故郷の神を合祀するよう願ったため。

茶ノ木神社
松島神社から再び新大橋通りに出て水天宮の交差点に戻る。交差点を渡り一つ目の道を右に入るとすぐに茶ノ木神社がある。
神社の周囲を巡らす茶の木の緑が見事であったところから茶ノ木神社の名が付けられたというが、今はビルや住宅に取り囲まれて小さな社があるのみ。
七福神は布袋尊を祀る。ご朱印は水天宮でもらう。

もう一度新大橋通りに戻り先の信号を右折する。さらに次の信号を左折すると左に東京穀物商品取引所がある。この前を右折して次の通りを左に入ると正面、民家に挟まれて小網神社がある。

小網神社
創建は古く室町時代の文正元年(1466年)と伝える。当時流行した疫病に霊験があったところから庶民の信仰を集めたという。当初神仏習合であったが、明治元年の神仏分離令により分離した万福寿寺が廃絶したため、弁財天・福禄寿がここに移された。
旧社殿は関東大震災で焼失し、現在の社殿と本殿は昭和4年に再建されたもの。大震災で倒壊する前の明治神宮を建てた宮大工内藤駒三郎の最後に手がけたもので、社殿に施された登り竜などの彫刻は見事。

人形町
もとの東京穀物商品取引所の前まで戻って東へ進む。 この辺り一帯寛永10年(1633年)頃より、江戸歌舞伎の市村座、中村座、人形浄瑠璃の結城座、薩摩座などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物でにぎわったという。またそれらの人形を作る店が軒を並べたことから人形町の地名が付けられた。
文楽人形の精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨のひげでなければ出せないようで、今でもバネは鯨ひげが使われている。それを表すものとして鯨のモニュメントがここに設置された。

谷崎潤一郎生誕の地
さらに進み、人形町通りに出る少し手前にツカコシビルがある。谷崎潤一郎は明治19年、この地にあった母方の祖父の家(谷崎活版所)で生まれた。ビルの前に松子夫人の揮毫による碑が建てられている。

甘酒横丁
日本で最初に親子丼を出したという軍鶏料理のお店玉ひでの前を通り、先の人形町通りを渡ったところが甘酒横丁。なんとなく江戸情緒を醸す名前だが、かつてここに尾張屋という評判の甘酒屋があったところから名付けられたという。
甘酒は味わえないが、この辺り一帯、先の玉ひでや、すき焼きの今半、洋食の芳味亭、煎餅の亀井堂など老舗の食べ物屋が多い。

末廣神社
甘酒横丁を行き、最初の信号を左に折れ、先の駐車場のある角を右に曲がると末廣神社。七福神の毘沙門天を祀る。
この辺り一帯元吉原跡。江戸時代初期遊女屋を経営していた庄司甚右衛門が幕府公認の遊郭をここに設置したのが吉原の始まり。後市街地の広がりとともに風紀上の問題から浅草に移転する。この辺りに老舗の料亭などが多いのもその名残か。

笠間稲荷神社
末廣神社から東に進む。途中公園風の緑地帯を横切り、次の通りを左に折れると広い通りの角に笠間稲荷神社がある。
その名で分かるように、三大稲荷の一つで、宇迦之御魂神を祭神とする常陸笠間稲荷の分霊を祀る神社で、五穀をはじめ、水産、殖産の神として信仰されている。七福神は寿老人。

史跡玄冶店跡
笠間稲荷神社の前の広い通りを西へ行くと人形町の交差点。ここを右に曲がったところの角に「史跡玄冶店」の碑がある。
3代将軍家光が大病を患ったとき家光が京都からつれてきた幕府の医師岡本玄冶が治した功により拝領した屋敷があったことから玄冶店と呼ばれるようになった。その後発展して多くの店が出来、歌舞伎役者やその愛人などの住む粋な町になったという。お富と切られ与三郎の情話で知られる「与話情浮名横櫛」の舞台になったところ。

椙森神社
玄冶店跡の碑を見て北へ。二つめの信号を左に入り、次の通りを右に入るとある。天慶3年(940年)俵籐太こと藤原秀郷が、平将門の乱を鎮圧し滅ぼしたが、このときこの地に社を建てたのが始まりと伝える。江戸時代には杉の木が生い茂り、新橋の烏森、深川の雀の森とともに江戸三森と呼ばれていたという。
七福神は恵比寿神を祀る。

寶田恵比寿神社
椙森神社を北へ一つ目の通りを左へ。中華料理屋の手前を右に折れ三つ目の角を左に入ったところにある。七福神はここも恵比寿神だが、ご朱印は椙森神社で一緒に受ける。
元は今の皇居前広場辺りにあったものを、慶弔11年(1606年)江戸城拡張のときにここに移された。両側を駐車場に囲まれ鳥居と社殿がポツリとあるだけだが、毎年11月19、20日の恵比寿講は大変賑わうそうだ。特に「べったら市」はよく知られている。

石町時の鐘
宝田神社から北へ、江戸通りに出て歩道橋を渡り、通りを一つ入った右手に十思公園がある。
公園内にある石町時の鐘は江戸市中最初の時の鐘。当初本石町3丁目(現在の本町4丁目)に鐘楼が建てられ、江戸48町に時を告げた。また、鐘の音の聞こえるは以内にある商家からは1月1文の「鐘楼銭」を集めて維持・運営をしていたという。「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた時の鐘も、明治に入り廃止され、銅鐘だけが現在地に移された。

伝馬町牢屋敷跡
十思公園と周辺一帯が江戸伝馬町牢屋敷があったところ。牢屋敷は最初常盤橋門外にあったものを延宝5年(1677年)ここに移され、明治8年に市ヶ谷に監獄が出来るまで約200年続いた。この間全国から伝馬町送りとして入牢したものは数十万人を数えたという。
ここは未決囚や刑が確定した者が執行されるまでの間拘禁する場所で、懲役刑はなかった。
伝馬町跡は処刑者の祟りを恐れて利用する者もなく暫らく荒れるに任せていたが、大蔵喜八郎、安田善次郎らが霊をしずめるため明治8年に大安楽寺を建立し、境内には延命地蔵を安置した。

吉田松陰終焉の地
安政5・6年(1858・59年)に大老井伊直弼が尊攘派に行った弾圧・安政の大獄で吉田松陰や、橋本佐内、頼三樹三郎ら50余人が捕らえられ伝馬町の刑場で処刑された。 昭和14年に十思公園の一角に「吉田松陰終焉の地」碑が建立され、横には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」の辞世の歌碑も建てられている。

日本橋
十思公園から再び江戸通りに戻り西へ。日本橋に出て本コースの最終地とした。
日本橋は慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開いた折、城下を整備するため湿地帯だったここに橋をかけたのがはじめ。その後五街道の基点を日本橋とし、各街道に一里塚を置いた。
ここから地下鉄を利用しても良いが、東京駅までは20分ほど。

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