街歩き
八王子千人同心の町から万葉公園を訪ねる
2013.3.17歩く
江戸時代、平時は農業に従事しながら、甲武国境の警護に当たったり、幕末には長州征伐や日光勤番を務めた八王子千人同心も、明治維新のときに離散、建ち並んでいた屋敷もすべて取り壊され、今は町名にその名を残すのみ。が、市内にはゆかりの寺や史跡が点在する。そんな史跡を巡り、さらに遡って万葉の歌碑を訪ね、古の風景を偲んでみた。 |
JR西八王子駅 最寄り駅、西八王子駅へは、東京駅から中央線快速で1時間4分。途中新宿駅からは50分ほどで着く。 |
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いちょう並木 駅北口のロータリーから1本北の甲州街道へ出ると左右に見事ないちょう並木が続いている。 このいちょう並木、昭和2年の大正天皇の多摩御陵完成に伴い、宮内庁によって植えられたもので、追分町から高尾町まで4km程の間におよそ760本ほど植えられている。 秋の黄葉期にはさぞ見事な眺めとなることだろ。11月半ばには八王子いちょうまつりが開催される。 |
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興岳寺 甲州街道を東へ450mほど行き、花屋の角を右へ入ると興岳寺がある。 文禄元年(1592)千人同心の石坂弥次衛門森信の開基による曹洞宗のお寺。 門前の道路を隔てた南側の墓地に千人頭石坂弥次衛門義礼の墓がある。義礼は戊辰戦争の折の日光勤番最期の責任者であったが、東照宮を交戦せず官軍に引き渡し帰郷した。しかし郷土八王子で攘夷派の批判にあい、その責任を負って自刃したという。戦後、東照宮を戦火から救った功労者の一人として認められた。 |
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千人同心屋敷跡記念碑 元の甲州街道に戻り先に進むと甲州街道と陣馬街道の分かれるところがある。ここが追分で、歩道橋で反対側に渡る。この上から見るいちょう並木の眺めが素晴らしい。 歩道橋を降りて、角に交番のある先に大きな千人同心屋敷跡の碑がある。 千人同心は、元は武田氏の小人頭だったが、武田氏滅亡後徳川幕府の支配下に入った郷士集団。平時は農耕に従事しながら甲武国境の警備などに当ったが、幕末には長州出兵や日光勤番などもつとめた。この辺りに千人頭の拝領屋敷や組屋敷が並んでいたが、維新とともに明け渡され、今はその面影もない。 |
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南浅川 静かな陣馬街道沿いの街並みを西へ進むと南浅川に出会う。日曜日とあって、河川敷では多くの市民がウォーキングやジョギングを楽しんでいる。 水無瀬橋の手前の信号を左へ入る。南西に300mほど進むと左手に宗格院がある。 |
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宗格院 文禄2年(1593)八王子千人頭山本忠房の開基による曹洞宗のお寺。本尊は聖観世音菩薩。 江戸期の初め、武田家の家臣から徳川家の家臣となり、石見銀山や佐渡金山の奉行を務め、老中となった大久保石見守長安が、度重なる淺川の氾濫から所領の八王子を守るため土手を築いた。これを石見土手と言い、その一部が市の史跡となって境内に残っていると聞いていたが、見つけることができなかった。 |
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松本斗機蔵墓 宗格院墓地には、東京都指定史跡となっている松本斗機蔵の墓がある。 斗機蔵(胤親)は、千人同心組頭胤保の長男として生まれ、幼少より学問を好み、昌平黌では、天文・地理・兵学などを修めた。海外事情にも精通して、幕府の鎖国政策には批判的で、日本の開港を主張していた。海防問題を論じた「献芹微衷」を水戸藩主徳川斉昭に献じたことで知られている。 宗格院を出て先に進み、信号のある広い通りに突き当たると左折し甲州街道に出る。これを右へ、並木町の交差点を左折して中央線を潜る。二つ目の信号で右へ渡り、住宅街の道を緩やかに登って行くと左に真覚寺の森が見えてくる。 |
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真覚寺 寺伝によれば、鎌倉時代の文暦元年(1234)創建の真言宗智山派のお寺。本尊は不動明王。 境内は江戸時代から、産卵のために池に集まった雌蛙を求めて多くの雄蛙が争った「蛙合戦」の場として知られていた。多いときは万を超える蟇蛙がいたといい、市の天然記念物に指定されていたが、宅地化が進み、今ではほとんど見られなくなったという。それで、市指定天然記念物も市指定の旧跡に改められた。 |
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万葉公園 真覚寺の裏山は万葉公園として整備されている。境内墓地からも行けるようだが、墓参に来ていた人に教えられ、一旦境内を出て左の山裾と右の住宅地の間の道を南へ回りこむと、万葉公園の入口がある。 高台からは八王子市内が良く見渡せる。今は見渡す限り甍の波だが、万葉の時代には一帯は小高い丘陵地だったのだろう。多摩の横山と呼ばれ、万葉集にも詠まれている。 |
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万葉歌碑 その万葉歌碑が園内にあるというので捜したが、なかなか見つからなかった。ずいぶん時間をかけてようやく叢の中にひっそりと佇んでいるのを見つけた。碑面の歌は 赤駒を 山野にはかし 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ 4ー4417 防人、豊島郡の上丁椋椅部荒虫の妻宇遅部黒女の作。 (防人として旅行く夫に赤駒を与えようと放っておいたが、捕えることができず、多摩の横山を歩いて行かせることになってしまった) 公園を整備するときに、既にこの歌碑が建てられていたので、万葉公園と名付けられたとか。 |
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もと来た道を先ほどの信号機のあるところまで戻り、渡り返して東に進む。400mほど行き、佐藤歯科医院のあるところを左に入って行く。正面に山田小学校を見ると左から学校に沿って道なりに回り込んで行く。やがて、左に立派な総門、山門を構える廣園禅寺に着く。 |
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廣園寺 康応2年(1390)翁令山和尚によって開創された臨済宗南禅寺派のお寺。 天正18年(1590)八王子上攻略の折の兵火や元禄10年(1697)の火災で堂宇は焼失、現在の建物は江戸末期に再建されたもの。 禅宗の建築様式にのっとって、総門、山門、仏殿と一直線に並び、仏殿には本尊の弥勒菩薩を安置する。向って右脇に鐘楼があり、この4つの建物が都の有形文化財に指定されている。さらに奥に本堂、開山堂、庭園があるがいずれも拝観はできない。 江戸時代には末寺百ヵ寺を持つ大寺だったという。 |
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富士森公園 廣園寺からさらに東へ進むと県道506号に出る(廣園寺入口)。ここを左へ500mほど行くと市民体育館の交差点。これを渡ると富士森公園。 園内は広く、市民体育館の他に市民球場、陸上競技場、テニスコートなどの施設が整っており、それらを縫って散策路がある。 |
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信松院 富士森公園を出て、角の信号のある横断歩道を渡り北に向かう。第七小学校のある広い通りに出ると左へ。信号を渡ると信松院。門前の松姫の石像に迎えられ境内に入ると、すぐ右にある異様な建物に驚かされる。まるで竜宮城を思わせるような煌びやかな建物は昭和63年に建立された観音堂。本尊聖観世音菩薩を安置する。 信松院は、天正18年(1590)武田信玄の四女松姫が、武田氏滅亡後難を逃れ、剃髪して当地で草庵を結び、一族の菩提を弔ったのが当寺の始まりという。曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦牟尼佛。 |
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松姫の墓 境内奥の高台に松姫の墓がある。家紋の武田菱が入っているのですぐそれと分かる。松姫は織田信長の長男信忠と婚約していたが、三方が原で両家が戦ったため破談になったという。当地では絹織物の技術を伝えたり、子供達に手習いを教えるなどして、土地の人たちに慕われていたが、56歳で没した。 小早川隆景の軍が使用した軍船の模型といわれる「木製軍船ひな形」が、松姫の兄仁科盛信の子孫仁科資真から寄進され、当時の船を知る貴重な資料として都の有形文化財として指定されている。 |
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八王子市郷土資料館 もとの道を戻り、第七小学校を過ぎて100mあまり行くと左に八王子市郷土資料館がある。 八王子千人同心・八王子宿・八王子城のことや、市内の各遺跡からの出土品が常時展示されている。本当は逆回りにして、ここで予備知識を得てから歩くとよいのだが。 |
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JR八王子駅 この先まだまだ訪ねたいところがあったが、残念ながら夕闇が近付いてきた。残りはまたの機会にして、真直ぐ駅へ急いだ。 |