逆 井 城



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  城地種類  平城
  天守形態  なし
  築城年代  享徳5(1450)年、天正5(1577)年
  築 城 者  逆井常宗 北条氏繁
  指  定  県指定史跡 
  所 在 地  茨城県坂東市逆井1262
  アクセス  関東鉄道・つくばエクスプレス守谷駅西口からバス
        35分で猿島バスターミナル・そこから徒歩35分。

 逆井城は、享徳5(1450)年、小山義政の五男常宗がここに城を構え、酒井氏を名乗ったのが最初とされている。

 その後、関東進出を狙っていた北条方の大道寺盛昌に滅ぼされ、逆井城は北条方の勢力下となった。

 天正5(1577)年、ここを北条氏の下野・常陸方面への進出の前線基地として、玉縄城主だった北条氏繁が新たに城を築いた。城の北側には、今は江戸時代の干拓で無くなってはいるが、幅1km、長さ30kmに及ぶ飯沼があった。この沼の入江で北と東西の三方を囲まれた堅固な地は、敵対する佐竹氏、結城氏、多賀谷氏らと対峙するのに格好の地であった。

 しかし、天正18(1590)年3月29日、豊臣秀吉の小田原城総攻撃により北条氏勝が敗れ小田原城を開城、氏勝は玉縄城に入る。そして4月21日、玉縄城も開城したため、前後して逆井城も開城する。その後徳川家康が江戸城に入り、逆井城は廃城となった。

 発掘調査が行われた後、遺構は忠実に復元・整備され、中世城郭の姿がよく分かるようになった。現在は、逆井城址公園として開放されている。



大手口の冠木門
 冠木という横木を左右2本の門柱の上部に貫いて建てた門。屋根が無い。  




東二曲輪
 冠木門を入って先を右へ行くと東二曲輪。  




東二曲輪
   




東二曲輪と一曲輪の間にある濠とそこに架かる橋。  




櫓門
 発掘調査の結果、東西に3個ずつ2列の柱穴が見つかり、それをもとに戦国時代末期の姿を想定して復元されている。なお、復元にあたっては、遺構を保存するため、実際の位置より西へ1m、北へ50cmずらして建てられている。
 間口3.03m、梁行2.07m、高さ5.95m  




横矢掛り
 堀の土塁を直角に築くことにより、敵が虎口へ攻め入るのを横から矢を射て防ぐために造られたもの。ここでは東二曲輪から一曲輪の櫓門へ進攻する橋上の敵を横から狙うために造られている。    




 西仁連川
 本丸の北側を流れる西仁連川。築城当初はこの辺り飯沼で、三方を沼で囲まれた要害の地に逆井城は築かれた。飯沼は江戸時代に干拓された。遠くに見えるのは筑波山。  




鐘堀池
 一曲輪(本丸)の南側、西二曲輪との間にある二重土塁の一角にある池。現地説明板にその由来が紹介されている。
 「天文5(1536)年3月3日、ときの逆井城主常繁は、北条氏康方の大道寺駿河守の城攻めに破れ戦死しました。この時城主の奥方(娘か)は、先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み、自殺したと言われています。この釣鐘を捜そうと何人もの人が池を掘ったため、「鐘堀池」とか「鐘堀井戸」と呼ばれています。
 この池はどんな旱でも水が枯れることがないと言われるほど、湧水が豊かです。城の生活水を賄うために掘られたのではないかと考えられています。」   




関宿城門(薬医門)
 西二曲輪にある主殿への入り口にある門。元関宿城にあったが、関宿城が明治になって廃城となり、建物の一部が民間に払い下げられた。この門もその一つで、町内の鶴見栄助氏宅にあったものを譲り受け移築したものという。
 薬師門とは、本柱が門の中心線上から前方に少しずれている。すなわち本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束を乗せて切妻屋根を乗せた門のことを言う。  


 


主殿
 この主殿は、大台城遺跡(潮来市牛堀)の発掘調査の時に出土した遺構を参考にしてして復元されたもの。正面から見て右側半分が主室で、左側半分が控室的な部屋となっている。なお、大台城は敵対する佐竹義宣によって築かれた城。




主殿の正面(南面)には枯山水の庭園が。




井楼矢倉
 米を蒸す蒸籠のように角材を井桁に組み上げて造った矢倉。物見矢倉として敵の動静を監視するとともに味方の全軍の状況を把握するためのもので、西二曲輪の南西角土塁上に建てられている。
 これは戦国時代末期のものを復元したもので、このような役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣と言われている。間口・奥行とも2.73mで、高さは12m。




物見櫓
 大手口に建てられた二層櫓。戦国時代末期のものを想定して復元されている。6m四方の櫓の上に入母屋造りの望楼を置く。高さ10.6m。




物見櫓から大手口を望む。  


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