小 田 原 城
城の形態 梯郭式の平山城 天守形態 三重四階 層塔型 築城年代 応永25(1418)年 築 城 者 大森頼春 指 定 国指定史跡 所 在 地 小田原市城内6番1号 アクセス JR小田原駅から徒歩10分 応永25(1418)年、鎌倉公方足利持氏方の大森氏が、上杉禅秀の乱の戦功でこの地を与えられ築城したのが始まり。 文亀元(1501)年、伊豆の北条早雲が大森氏を攻め落とし、関東進出を図る北条氏の拠点とした。城は5代氏直まで凡そ90年北条氏の居城となる。 その間上杉謙信や武田信玄に攻められるも堅固な城に守られ、これをいずれも退けている。 北条4代氏政は、城下町を含めた延長9kmにも及ぶ濠を築いて、総構えの難攻上落の城とするも、天正18(1590)年天下統一を図る豊臣秀吉に攻められ、5代氏直が開城する。 開城後は徳川家康に与えられ、家康の重臣大久保忠世が入城、次いで阿部氏、稲葉氏、再び大久保氏が入城し幕末を迎える。 この間度重なる地震により天守閣は大きな被害を受け、その都度修復を重ねてきたが明治3年に廃城、天守などの建物が解体された。 昭和35年に天守閣が、次いで常盤木門(昭和46年)、銅門(平成9年)、馬出門(平成28年)が再建され今の姿となっている。 |
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大手門跡 三の丸の江戸側にあり、石垣の一部が残されていて鐘撞堂が建てられている。正面突き当りが二の丸東堀で、その奥に二の丸隅櫓が見えている。この辺りに家老や上級家臣の屋敷があったという。 |
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二の丸隅櫓 櫓はもともと矢倉と言われ、弓矢などの武器の保管庫として建てられた。またここで攻め入る敵を防御する拠点としての役割も持っていた。各郭の隅に建てられたので隅櫓という。 大正12年の関東大震災で倒壊したが、昭和9年に復興された。平櫓。 |
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馬出門 三の丸から馬出門土橋を渡ると正面に馬出門。ここを入ると枡形になっていて、左へもう一つ内冠木門を入ると馬屋曲輪。 |
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住吉堀と住吉橋 馬屋曲輪と二の丸を隔てているのが住𠮷堀。住𠮷堀に架かる住𠮷橋を渡って二の丸に入る。 昭和58年から始まった本格的な発掘調査で、堀底から戦国時代の北条氏によって築かれた野面積みの石垣や障子堀が発掘された。住𠮷橋は平成2年に復元された。 |
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銅門 二の丸の表門。渡櫓を持つ桝形門で、平成9年に復元された。 |
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銅門の門扉 門扉には銅板が貼られ、銅で作った飾り金具が取り付けられている。それがアカガネ門の吊前の由来となっている。 |
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本丸東堀 銅門を入ると二の丸で、右手には二の丸御殿があった。 正面一段高いところが本丸で、その石垣下がが本丸東堀。堀は空堀で、今は花菖蒲園となっている。 |
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常盤木門 東堀を常盤木橋で渡ると常盤木門。小田原城本丸の正門で、渡櫓を備える枡形門。さらに両側に多門櫓を備えて重厚な構えを見せている。昭和46年に再建された。 |
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天守 天守の創建ははっきりしないが、応永25(1417)年大森頼春によるものといわれている。その後重なる地震で被害を受け、その都度修復されてくるが、明治3年に廃城願を出し、天守他すべての建物が解体された(政府による廃城令が出たのは明治6年)。 現在の天守は、昭和35年に江戸時代の模型や明治の解体中の写真をもとにして外観復元されたもの。3層5階の鉄筋コンクリート造りで、内部は資料展示室になっている。 |
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小峰の大堀切 本丸から続く八幡山丘陵の尾根を分断し、敵の攻撃を防ぐために北条時代末期に築かれたもの。城の西側を防衛する重要な場所であった。 幅は20~30m、深さは12m、傾斜は50度と急傾斜になっており、空堀としては国内では最大級のものといわれている。 |
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一夜城方面 天正18(1590)年天下統一を図る豊臣秀吉は小田原城を攻めた。 しかし、堅固な小田原城はなかなか落ちず、戦いは長期戦を見せ始めた。攻めあぐねた秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に石垣を築き、陣城を造った。出来上がった夜、周囲の木々を一斉に切り倒したので、翌朝これを見た北条方は、一夜にして城ができたものと驚愕し、戦意を喪失したという。 石垣を築くのに3カ月近く掛かったというが、この間城方で全く気付かなかったとは考えられないのだが。 |
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一夜城から天守を見下ろす 建物が重なって分かりづらいが、中央手前に天守閣が。ここからだと城内の動きがよく分かったと思われる。 |
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北条氏政・氏照の墓 城を包囲された北条方では出撃するか籠城するかで意見が分かれ議論が長引いたという。これが後に「小田原評定《と言い、会議が長引いてなかなか結論が出ないことの譬えとされている。 豊臣方からは黒田孝高(官兵衛)が再三講和の使者として訪れ、結局当主氏直が降伏と決した。 主戦派の氏政とその弟氏照は切腹を命じられ、当主氏直(氏政の子)は一命を助けられ高野山に入った。 氏政・氏照の墓は、市内栄町2丁目にある。 |