街歩き
人形の町岩槻を訪ねて
2009.11.21歩く
岩槻は室町時代に太田道灌(父太田道真とも)が築城して以来城下町として、下って江戸時代に日光御成り道の道筋となってからはその宿場町として発展してきた。さらに日光東照宮の造営に携わった工匠の一部がここにとどまり人形作りをしたのが始まりとされている。岩槻の人形は土ではなく、桐の粉を使ったことから丈夫で精巧に作ることができ、人気を呼んだ。戦後は岩槻を代表する産業に発展し、岩槻は人形の町として全国的に知られるようになった。 |
東武野田線岩槻駅 上野から高崎線25分で大宮駅へ。ここで東武野田線に乗り換えて11分で岩槻駅。 |
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人形の博物館 駅前通りの角に人形の東玉の本店があり、この4階に東玉の経営する人形博物館がある。江戸時代からの御所人形、雛人形、五月人形など多数所蔵し、季節ごとにテーマを変えて歴史や文化を分かりやすく展示している。 人形工房の見学や人形づくりの体験も出来る。 |
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駅前通り さすがに人形の町だけあって駅前通りには多くの人形店が軒を並べる。それぞれのウインドーには様々な人形が飾られていて華やか。見て歩くだけでも楽しい。 |
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岩槻郷土資料館 岩槻駅入口の交差点を右へ行く。ここは市宿通りで、かつての日光御成道。道路の拡幅工事が行われていて、ずいぶん広くなっている。400mほど行った左側に岩槻郷土資料館ある。 昭和5年(1930)に建てられた岩槻警察署の旧庁舎を利用して、昭和57年5月に開館した。 | |
建物は、アールデコ調の装飾が随所に施されていて、大正建築の面影を残している。 国指定の史跡真福寺貝塚から出土した石器や土器などの考古資料、岩槻城や藩校遷喬館とその創立者児玉南柯に関する資料、そして民具などを展示し岩槻の歴史を解説している。 | |
人形歴史館 岩槻郷土資料館をさらに200mほど進むと道路の反対側にある。 ここでは、日本人形の製作工程が一目で分かるように展示されているほか、立雛・寛永雛・享保雛・古今雛・元祖裃雛1000体など数多く展示されている。また人間国宝平田郷陽の「わらべ」なども見られる。 木目込み人形作りや顔描きの体験も出来る。 | |
隣接の店舗では数多くの出荷前の商品が飾られていて見るだけでもOK。見る人の目を楽しませてくれる。 人形歴史館を出てさらに200m先を右へ入ったところに浄国寺がある。 | |
浄国寺 岩槻城主太田氏房の発願で、天正15年(1587)に建立された浄土宗のお寺。江戸初期に、浄土宗の僧侶養成機関である関東十八檀林の一つとなった名刹。元和9年(1623)阿部正次が岩槻藩主となってからは阿部家の菩提寺となった。 境内には遷喬館を開校した児玉南柯の墓もある。 本堂は大修理工事が行われていた。 | |
岩槻藩主阿部家の墓 本堂左奥にある。右側が初代藩主阿部正次の墓。左側が三代藩主定高の墓。その左の小さいのが定高に殉じた家臣小倉與兵衛政光の墓。このほか6基の燈籠がある。境内別の場所に、定高の生母正寿院の供養塔と1対2基の燈籠があり、併せて市の史跡に指定されている。 | |
裏小路 浄国寺を出て元の通りを岩槻駅入口の交差点まで戻る。交差点を渡り、次の信号を右に入り最初の角を左に折れるとそこは裏小路。かつて武家屋敷のあったところというが、今は全く面影はない。 左に図書館を見ると、その向い側奥まったところに遷喬館がある。 |
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遷喬館 岩槻藩に仕える儒者児玉南柯が寛政11年(1799)に開校した私塾。後岩槻藩校となる。 南柯の本名はj。延享3年(1746)甲府の豊島家の長男として生まれるが、11歳のとき岩槻藩士児玉親繁の養子となる。16歳で藩主大岡忠喜の御中小姓となり、以後藩の要職を勤めるが、46歳の時、部下の不正の責任を取って職を辞した。その後藩士の教育に当たり、遷喬館を開校する。 平成15年から18年にかけて解体修復工事が行われ、開校当時の姿になる。藩校の建物が残っている例は少なく、県の史跡に指定されている。 | |
時の鐘 「岩槻に過ぎたるものが二つある。児玉南柯と時の鐘」と地元で言われている。 その時の鐘、寛文11年(1671)城主阿部正春の命により設置された。武家屋敷と町人町の境の渋江口に設置され、当初は1日3回、江戸後期には12回撞かれ、時を告げていたという。 当初のものはひびが入ったため、享保5年(1720)に改鋳されたものが現在のもので、今も朝夕6時に時を告げているとのこと。 市の指定文化財。 |
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諏訪神社 時の鐘から東へ。次の広小路を左折。次の角の大手口の標識を右へ、岩槻商校を左にみて進むとその先が諏訪神社入口の諏訪小路。 諏訪神社の創建は明らかでないが、岩槻城守護の軍神として信濃諏訪上社の祭神を勧請して祀ったものといわれている。祭神は建御名方命。 |
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諏訪神社と岩槻商校の間の道を緩やかに降りていくと正面に岩槻城祉公園に突き当たる。 現在岩槻城祉公園になっているのは、岩槻城の南端に当たる新曲輪、鍛冶曲輪の跡で、本丸・二の丸・三の丸はこの北側になり今は市街地となっている。 岩槻城は室町時代の築城で、築城者は太田道真とも、その子太田道灌ともいわれている。 城は一時北条氏の支配となるが、豊臣秀吉の小田原攻めで破れ、徳川家康が江戸に入城すると家康の家臣高力清長が岩槻城主となる。以後岩槻は北方の守りの重要な要として譜代大名が城主となった。 |
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岩槻城城門(黒門) 突き当たりの道を右へ上がって行くとある。 明治維新の廃城に伴い、門は埼玉県庁や知事公舎の正門として利用されてきたが、昭和29年に岩槻市に移管され、昭和45年に現在地に移築された。両側に小部屋を持つ長屋門になっている。近くに裏門も移築されている。 |
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岩槻城祉公園・菖蒲池 黒門の先を右下に下りていくと菖蒲池。朱塗りの橋が艶やかに目立つ。水鳥が遊んでいたが、今はカルガモだけ。池の周りは桜の木も多く、花の名所としても知られている。 |
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岩槻城祉公園・時計台 さすがは人形の町。すっきりとしたきれいな時計台だ。 広い芝生広場や子供の遊具などもあり、市民の憩いの場となっている。 |
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三の丸跡付近 公園を出て広い車道を西へ。さいたま春日部線との交差点に出る。この辺りが三の丸跡。この右奥に本丸・二の丸跡とつづく。 ここを左に折れ、太田道灌像のある岩槻区役所を過ぎると国道122号線。これを右へ行き東武線の踏み切りの手前を右に入る。もう一度踏み切り(先程の東武線の東岩槻駅寄り)のある手前の右手にこんもりとした高台がある。これが岩槻城の大構の土塁。 |
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岩槻城大構・愛宕神社 岩槻の城下は、その周囲を土塁と堀で囲んでいた。これを大構といい、これは城の防御の強化と城下町を保護するためのもので、その延長は8kmに及んだという。廃城と共に少しずつ姿を消していったが、この愛宕神社のある土塁は、当時の姿をとどめる数少ない貴重な遺構となっている。 すっかり暗くなった。元の道を戻り国道122号線を渡ると岩槻駅はすぐそこだ。 |
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