里山歩き


万葉の古里 飛鳥路を歩く


2012.4.9歩く

コ ー ス  徒歩約2時間
近鉄吉野線飛鳥駅(10分)欽明天皇陵(10分)鬼の雪隠・鬼の俎(4分)天武・持統天皇陵(14分)亀石(10分)橘寺(10分)犬養万葉記念館(6分)伝飛鳥板蓋宮跡(8分)万葉文化館(8分)飛鳥寺(20分)甘樫丘(20分)バス停(バス10分)橿原神宮前駅

 日本の律令国家としての基礎を築いた7世紀の飛鳥は、大陸からの多くの渡来人によって持ち込まれた文化や技術、特に仏教の伝来は日本文化を大きく花開かせ、歴史の表舞台となった。
 1400年の歴史を伝える寺院や古墳、史跡には数々の物語が秘められている。そんな飛鳥を訪ね、古代のロマンを偲んだ。  



近鉄吉野線飛鳥駅
 スタート地点となる飛鳥駅へは、京都から近鉄有料特急55分(急行で73分)で橿原神宮前駅へ。ここで吉野線に乗り換えて5分で着く。
 大阪からは、近鉄大阪阿部野橋から有料特急で40分(急行で48分)。

 改札を出て左手に飛鳥の総合観光案内所「飛鳥びとの館」があるので、立ち寄って案内図などの情報を仕入れて行くと良い。工芸品や特産品など飛鳥ならではの土産物も販売している。

 駅前の国道R169を横切って100mほど行くと左へ欽明天皇陵へルートを示す案内標識がある。これに従って長閑な田圃の中の道を行く。前方に見えている木立が欽明天皇陵。  

欽明天皇陵(140mの前方後円墳)
 第29代天皇で、父は継体天皇。欽明天皇13年(552)5月に、百済の聖明王が仏像1体と経論、幡蓋を献上してきた。天皇は仏教崇拝の是非を1人で決めかね、群臣に問うたところ蘇我稲目が崇拝を是とし、物部尾輿他が反対したため、天皇は蘇我氏にこれを預け礼拝させるようにしたという。
 このことが後々蘇我と物部の争いの元となり、用明天皇2年(587)物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされることになる。
 日本書紀によると、欽明天皇は32年(571)4月になくなり、檜隈坂合陵に葬られたとあるが、それがこの地というが、別に丸山古墳という説もある。後に妃の堅塩媛も合葬された。

猿石
 欽明天皇陵の前に、孝徳天皇と皇極・斉明天皇の生母である吉備姫王墓がある。墓前に高さ1m前後の奇妙な格好の猿石4体が置かれている。江戸時代に近くの水田から発掘されたものをここに安置したという。何に用いられていたものだろうか。
 飛鳥にはこのほか、謎の石造物があちらこちらで見かける。

鬼の雪隠
 謎の石造物といえばこれもその一つ。欽明天皇陵から少し戻り、飛鳥周遊歩道を東へ進むと道の右下に鬼の雪隠、道を挟んで反対側の高台に鬼の俎がある。
 その思わせぶりな名前から、昔ここにいた鬼が人を襲い、俎の上で料理し、雪隠で用を足したという恐ろしい話が伝わっている。  

鬼の俎
 これはもともと鬼の雪隠とセットになっていた石棺で、上部にあった墓の石棺が露出し、崩れ落ちたものと推定されている。

 このあたり日本の原風景を思わせる長閑な山村が展開する。
 周遊歩道をなおしばらく進み、地蔵を安置する祠のある角を右に入ると前方に野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)がある。

天武・持統天皇陵
   壬申の乱で、兄天智天皇の皇子大友を擁する近江朝廷軍と戦い、これを破って中央集権的律令国家の建設を進めた天武天皇と、夫の死後天皇となりその意志を継いで律令体制を完成させた持統天皇を合葬する。
 陵は八角陵で、横口式石槨を持ち、外陣と内陣から成り、奥の内陣に天武天皇の棺と持統天皇の金銅製骨蔵器を納めている。持統天皇は天皇としてはじめて火葬された。 なお、文暦2年(1235)に賊が入り、遺骨は遺棄されたという。

亀石
 天皇陵から南へ階段を下りて広い車道を左へ。左に天皇陵を見上げながら道なりに進む。道は一旦狭くなり、前方に信号機を見たら一つ手前の酒造会社の角を右に入る。周遊歩道の続きになる。
 途中工事中の道路の下を潜り反対側に出るとすぐに茶店があった。そこで一休みしたらすぐ横に亀石があった。これも謎の石造物だ。亀の顔に似ているところから亀石とつけられたが、何のために作られたのか。完成品で無いようにも思われるが。
 現在は西南の方向を向いているが、本来は東向きで、世の中が乱れると回転し、西面に向くと一帯は泥海に沈んでしまうという言い伝えがある。

橘寺
 亀石からさらに先に進む。民家の中の道を通り抜けると辺りは開け、右手田圃の中に橘寺が見える。
 この地は元欽明天皇の別宮橘宮のあったところで、聖徳太子はここで誕生したと伝えられている。
 後、聖徳太子建立七ヵ寺(四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺 ) の一つとして建てたのがここ橘寺。

本堂・太子堂
 創建年代は明らかでないが、南北870m、東西650mの寺域内に、金堂、講堂、五重塔など66棟の堂宇が建ち並んでいたという。天武天皇9年(680)4月11日には「橘寺の尼房で失火があり10房を焼いた。」と日本書紀にもあるが、その後も度重なる火災等で荒廃したとある。
 現在の堂は元治元年(1864)に再建されたもの。正式の寺名は仏頭山上実や皇院橘寺という。はじめ法相宗であったが、江戸中期に天台宗となる。本尊として聖徳太子像を安置する。  

川原寺跡
 橘寺を出て北へ、広い通りに出ると道を挟んで川原寺跡がある。元斉明天皇の川原宮のあったところで、天智天皇が母の斉明天皇を供養するために建立したと伝えられているが、建立時期については定かでない。
 伽藍は中門の両脇から出た回廊が正面の中金堂(現在弘福寺の建っているところ=写真)につながり、回廊内の左に西金堂、右に塔(基壇が残る)を配置しており、川原寺式伽藍配置といわれている。
 現在は中金堂のあった所に建てられた仏陀山弘福寺が法灯を継いでいる。真言宗豊山派。本尊は十一面観音。  

飛鳥川
 道を東に進むと飛鳥川を渡る。飛鳥から藤原京を斜めに横切って大和川に合流する。川幅の狭く変哲もない里川だが、古くから灌漑用としても利用されてきた。流域には多くの宮跡や古社寺があり、飛鳥人はこの川を神奈備川として大切にし、歌にも詠んできた。当時は清流が流れ、風情もあったのだろう。

 万葉集には飛鳥川を詠った歌が20数首ある。
 明日香川 瀬々に玉藻は 生ひたれど
   しがらみあれば なびきあへなくに
       7−1380 作者未詳

犬養万葉記念館
 飛鳥川を渡り、明日香村役場を過ぎて道が突き当たると右に折れる。すぐ先左に犬養万葉記念館がある。
 万葉集をこよなく愛し、全国の万葉故地を歩き「万葉の旅」「万葉の風土」などを著した犬養孝と愛弟子清原和義の蔵書8000点あまりを中心に、歌碑の拓本、写真、各種資料などを展示する。
 ビデオコーナーでは犬養節といわれる独特の節回しで歌いながら万葉の地を案内するビデオを鑑賞出来る。

 記念館の前の道を南に進み鳥居を潜って東へ行くと岡寺、そのまま南へ進むと石舞台古墳がある。  

伝飛鳥板蓋宮跡
 元の道を飛鳥村役場まで戻り、前の道を北へ行くと伝飛鳥板蓋宮跡。
 飛鳥時代、歴代天皇がそれぞれ宮を造営したが、皇極天皇の飛鳥板蓋宮がこの辺りと伝えられていた。昭和34年以来発掘調査が行われ、大規模な建物跡が発掘されたが、同時に発掘された木簡、土器などからみて、ここは飛鳥板蓋宮より新しい飛鳥浄御原宮の遺構とわかり、その下に飛鳥板蓋宮、さらにその下に岡本宮が埋まっているのではといわれている。
 皇極天皇の前で、中大兄皇子らが入鹿の首を刎ねたのがこの場所。
 左の平らな丘が蘇我氏の邸宅があった甘樫丘。

奈良県立万葉文化館
 伝飛鳥板蓋宮跡から右へ広い通りに出て先に進む。明日香民俗資料館の前を右に入ると万葉文化館がある。
 万葉集を中心とした古代文化をテーマとするミュージアム。万葉集の歌をモチーフに描かれた、日本画の代表作家の作品154点を収蔵し、順次展示替えをしながら展示している。
 万葉劇場では人形と映像による劇が楽しめるほか、図書や資料も充実しており、万葉文化を学ぶのには格好の施設。
 建設に当たり発掘調査された折、日本最古の貨幣富本銭を鋳造した飛鳥池工房遺跡が発見された。同遺跡は保存のため再び埋め戻され、その上に復元したものを見ることができる。

飛鳥寺
 もとの通りに出て北へ進むと左前方に飛鳥寺が見えてくる。
 崇峻天皇元年(588)蘇我馬子の発願により、推古天皇4年(596)に創建されたわが国最古の寺。はじめ法興寺と呼んでいたが、現在は安居院、通称飛鳥寺と呼んでいる。
 度重なる火災で当時の建物はことごとく焼失、一時荒廃したが、礎石から見る伽藍配置は、塔を中心にして、中(北)、東、西金堂が囲み、中門から出る回廊がそれらを囲み、回廊の北側に講堂が建てられている飛鳥寺式といわれるもので、わが国最古のもの。
 現在本堂となっている安居院本院は文政9年(1826)に旧中金堂跡に再建されたもの。  

飛鳥大仏
 飛鳥寺の本尊は釈迦如来坐像で飛鳥大仏と呼ばれている。
 日本書紀の推古天皇13年(605)夏4月1日条に、「天皇は皇太子(聖徳太子)・大臣(蘇我馬子)および諸王・諸臣に詔され、共に等しく誓願を立てることとし、はじめて銅と繍との1丈6尺の仏像を、各1躯造りはじめた。鞍作鳥に命じて造仏の工とされた。」とあり、これがわが国最古の鋳造仏・飛鳥大仏である。

 大仏は度々の火災で全身罹災するも忠実に補修され、当時のものはごく一部しか残っていないものの、面長な顔や杏仁形の目など、飛鳥彫刻の特徴が良く残されている。

 どこのお寺でも堂内撮影禁止のようだが、ここは仏前で一頻り説明を聞いた後、お写真はどうぞご自由にといわれ嬉しくなった。

入鹿首塚
 飛鳥寺の境内を西へ出たところに五輪塔が建っている。飛鳥板蓋宮の大極殿で討ち取られた入鹿の首を埋めたところと伝えている。
 また、討ち取られた首が鎌足を追って飛び回ったため、供養するために建てたといった面白い話も伝わっている。
 なお、五輪塔は鎌倉時代に造立されたものという。

水落遺跡
 入鹿の首塚から畑中の道を行き、前方に見える甘樫丘に向かう途中に水落遺跡がある。
 中大兄皇子が作ったわが国最初の漏刻(水時計)の遺跡といわれている。
 日本書紀、斉明天皇6年(660)夏5月条に、皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻をつくり、人民に時を知らせるようにされたとの記述がある。
 昭和56年の発掘調査により、漏刻を備えた楼閣状の建物遺跡が発掘され、日本書紀の記述が裏付けられた。  

甘樫丘
 すぐ先に埋蔵文化財展示室と直売所がある。その先の信号のところで飛鳥川を渡り少し行くと甘樫丘の登り口がある。ゆるやかな階段を上って行くと4〜5分で頂上の展望台に着く。
 途中に万葉学者犬養孝の書による志貴皇子の歌碑がある。
  采女の 袖吹きかへす 明日香風
    京を遠み いたづらに吹く
        1−51 志貴皇子  

二上山遠望
 標高148m。頂上展望台からの見晴らしは抜群に良い。
 西の方を見れば正面に大和三山の一つ畝傍山が、その後遠くに悲劇の皇子、大津皇子の墓がある二上山が望まれる。
 かつて蘇我蝦夷と入鹿はここに邸宅を構えていたが、乙巳の変で入鹿が討たれると、蝦夷は邸に火を放って自刃したという。  

耳成山
 目を北に転じると中央に三角形の耳成山。その手前に藤原京があった。左に流れるのが飛鳥川。眼下には飛鳥の数々の宮のあったところが望まれる。
 遠望が利くと東(右)に三輪山から春日山へかけての山並み。北に平城山。西には生駒山から信貴山。さらに葛城山から金剛山、そして二上山へとたたなづく青垣山。藤原京から下ツ道を真直ぐ北へ進むとそこには平城京。大和1400年の歴史を理解するためにはぜひ登ってみたいところ。いつまで居ても飽きない。

 山腹には「万葉の植物園路」があり、万葉集に詠まれた40種の樹木をクイズ方式のパネルで紹介している。  

橿原神宮前駅
 甘樫丘を下り立ったところからバスで橿原神宮前駅へ出たが、近くには雷丘、豊浦寺跡、剣池などがあり、時間があれば歩きたいところ。  




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