街歩き


鎌倉五山を巡る


2011.6.4歩く

コ ー ス  徒歩2時間30分
北鎌倉駅(4分)円覚寺(4分)東慶寺(4分)浄智寺(8分)明月院(16分)建長寺(18分)阿仏尼の墓(4分)寿福寺(12分)鶴岡八幡宮(20分)杉本寺(10分)浄妙寺(35分)段葛(15分)鎌倉駅

 五山とは、中国の南宋期(1127〜1279年)に第1位から5位と高い格付けをされた禅宗寺院のこと。日本でもこれにならって、建長5年(1386)に鎌倉建長寺を第1位としたが、その後元中3年(1386)に京都五山とともに鎌倉五山が確定された。鎌倉五山とは、第1位建長寺、第2位円覚寺、第3位寿福寺、第4位浄智寺、第五位浄妙寺。今回ははこの五山を巡り歩いた。

    

北鎌倉駅
 北鎌倉駅へは東京駅から横須賀線で1時間ほど。横浜駅からだと21分。
 東海道線だと大船で横須賀線が分かれるが、乗換は大船より一つ手前の戸塚駅の方が、横須賀線は同じホームの反対側となるので便利。

円覚寺入口
 北鎌倉駅のホームから線路を渡らずに東口を出て直接円覚寺に行けるが、ここは正面に出て、車の多い鎌倉街道を左へ行く。すぐ左に白鷺池(国名勝)があり、ここが円覚寺への入り口となっている。円覚寺開山の無学祖元が鎌倉に着いたとき、鶴岡八幡宮の神霊が白鷺となって案内してこの池におりたという説話がある。
 池を石橋で渡ると踏切があり、横須賀線が境内を横切っている。  


円覚寺
 踏切を渡り、総門を入ると正面石段の上に三間一戸の豪壮な山門がある。

 円覚寺は、鎌倉五山の第二位。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺といい、臨済宗円覚寺派の大本山。弘安5年(1282)、北条時宗が2度の蒙古襲来で戦没した敵味方の将兵を供養するために建立したという。開山は時宗が宋から招いた無学祖元。

仏殿
 円覚寺は度々の火災や地震により、一時衰微したが、江戸末期に中興の誠拙和尚が伽藍を復興した。仏殿はずっと遅れて昭和39年(1964)に鉄筋コンクリート造りで再建された。本尊は宝冠釈迦如来。

洪鐘
 仏殿に向って右手にある急な石段を上って行くと、見晴らしのよい高台に、弁天堂と鐘楼がある。

 鐘楼にかかっている梵鐘には正安3年(1301)の銘があり、北条貞時が国家安泰を祈って、物部国光に鋳造させ寄進したもの。
 総高2.8mは鎌倉第一の大きさで、洪鐘(おおがね)ともいい、鎌倉時代後期を代表する梵鐘で、国宝に指定されている。


円覚寺を辞し、横須賀線を渡って再び鎌倉街道を南へ。  

東慶寺
 正式には東慶総持禅寺という臨済宗のお寺。弘安8年(1285年)、北条時宗の夫人覚山尼の開山により、その子貞時が建てたと伝えられている。

 ここは縁切り寺として知られている。夫から逃れたいと願う女性が当寺へ駆け込むと離縁できるという縁起寺法が伝えられていた。この法は明治4年に廃止された。開創以来男子禁制の尼寺であったが、明治35年に男僧の寺に改められた。
 仏殿の泰平殿には本尊釈迦如来座像が安置されている。

東慶寺を出て鎌倉街道を右へ鎌倉方面に進む。横須賀線を渡る手前で右に入ると浄智寺。

甘露の井
 浄智寺の参道を行き、総門の前にある池に石の反り橋が架かる。今は渡れなくなっているので、池の右側を行くと、総門の左下に鎌倉十井の一つ甘露の井がある。

浄智寺
 鎌倉五山の第四位。臨済宗のお寺で、開基は北条師時。弘安4年(1281年)に没した父宗政の菩提を弔うために建てたという。

 総門を入り、次ぎに梵鐘を吊るす鐘楼門(山門)を通ると右手に曇華殿といわれる仏殿がある。仏殿には左から過去をあらわす阿弥陀如来、中央に現在の釈迦如来、右に未来をあらわす弥勒菩薩の三世佛を安置する。
 境内は国の史跡に指定されており、季節の花々が多い。

明月院
 浄智寺を出てすぐ先で横須賀線を渡り、左へ線路に沿って少し戻り、明月川に沿って行くとやがて明月院がある。
 紫陽花で有名なお寺だが、このときは花期には早かった。

 寺伝によると、永暦元年(1160)この地の住人首藤經俊が平治の乱で戦死した父俊道の菩提供養のために建てた明月庵がはじまりという。その後康元元年(1256)に北条時頼がここに最明寺を建立。のち福源山禅興仰聖禅寺となる。
 さらに康暦2年(1380)上杉憲方が中興し、伽藍を完備した。明月庵も支院の筆頭となり明月院と改められた。明治の初めに禅興寺は廃寺となり、明月院のみ残された。現在は臨済宗建長寺派のお寺。本尊は聖観音菩薩像。

 本堂左にある開山堂の前には鎌倉では最大級のやぐらがあり、上杉憲方の供養塔といわれる宝篋印塔が安置されている。また後ろには鎌倉十井の一つ瓶の井がある。

 明月院からもとの道を戻り、鎌倉街道を先へ進むと建長寺。

建長寺三門(重文)
 総門を入ると次に壮大な三門。中門を禅宗では山門又は三門といい、三門とは三解脱門の略。楼上には五百羅漢像が安置されているがこれは非公開。創建当時のものは度々の火災で焼失したが、安永4年(1775)に関東一円から浄財を募って再建された。

建長寺仏殿(重文)
 建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、臨済宗建長寺派の大本山。鎌倉五山の第一位。
 建長5年(1253)、鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立したもので、開山は中国の僧、蘭渓道隆(大覚禅師)。わが国最初の禅寺となった。

 桃山の様式を伝える仏殿は、江戸時代に芝増上寺から徳川二代将軍秀忠の夫人、小督の方の霊屋を移築したもの。

地蔵菩薩座像
 仏殿に安置されている本尊地蔵菩薩座像。座高は2.4mで、台座を入れると5mになる。

梵鐘(国宝)
 山門を入って右手に茅葺の鐘楼がある。
 梵鐘は、建長7年(1255)に、大和権守物部重光が鋳造したもの。高さ2.08m、重さ2.7トンもある名鐘で、大覚禅師による建長禅寺の銘文が浮き彫りされている。

 境内にはこのほか、法堂・唐門・名勝史跡庭園・創建当時からの柏槙の古木などがある。  

亀ヶ谷坂
 建長寺を出て北鎌倉方向に少し戻り、長寿寺の手前を左に入る。そこからが亀ヶ谷の切通しだ。鎌倉にはこんな切通しが多い。それが鎌倉の特徴となっている。昔はあまりの急坂に、亀さえも引っくり返ったので亀返り坂と呼ばれていたとか。
 坂を下って住宅街を行くと、右手に頼朝の娘大姫を供養するために建てられたと伝える岩船地蔵堂がある。

阿仏尼の墓
 地蔵堂の先で横須賀線を潜り、の線路に沿って鎌倉方向に進むと阿仏尼の墓と伝える六層の石塔がある。

 「十六夜日記」の作者として知られている阿仏尼は、所領の相続に関する訴訟問題で鎌倉にきていたが、弘安6年(1283)にこの地で亡くなっている。記録では、この供養塔はじめは無縫塔(卵塔ともいう)だったが、いつの頃からか六層の石塔になったようだ。
 でも六層というのはどういうことだろう。法隆寺の五重塔同様一番下は裳階だろうか。

 この後が英勝寺の境内となっている。太田道灌の屋敷跡に建てられたという英勝寺を右に見て進むとすぐ寿福寺。

寿福寺
 鎌倉五山第三位。正治2年(1200)北条政子が、亡くなった夫頼朝の霊を慰めるために建立した。開山はわが国にお茶を伝えたという栄西。山号は亀谷山。寺名は寿福金剛禅寺という臨済宗のお寺。

 ここは、もと源義朝の館があったところで、鎌倉から室町時代にかけては、25000坪ほどの境内には15もの塔頭が建ち並び、隆盛を極めたが、その後の重なる火災などで衰退していった。
 総門を入り、三門までの参道はきれいな石畳。ここまでは自由に入れるが、三門から先は非公開となっている。
 三門の先にある仏殿は正徳4年(1714)に建てられたもので、本尊釈迦如来像(国重文)が安置されている。

 寿福寺の前の踏切を渡って東へ鶴岡八幡宮へと向う。途中左手に鎌倉市川喜多映画記念館がある。  

鎌倉市川喜多映画記念館
 昭和3年に「東和商事(現東宝東和)」を設立し、映画の制作、輸入を通して日本映画の芸術文化の発展に貢献し、国際的映画人として知られた川喜多長政・かしこ夫妻。夫妻亡き後、川喜多邸は鎌倉市に寄贈された。市では夫妻の功績を記念し、ここに平成22年4月記念館を開館した。映画関係の資料の展示、映画の上映や講演会が行われている。

 記念館の前の道を行き、突き当りが小町通。ここを左に行くと急に人や車が多くなる。鶴岡八幡宮だ。
鶴岡八幡宮
 源頼義が、康平6年(1063年)由比郷に京都の岩清水八幡宮を勧請して祀ったのが始まり。治承4年(1180年)頼朝が源氏再興を期して鎌倉入りしたときに現在の地に移した。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。
 境内には国宝舘、近代美術館、ぼたん庭園など見るべきものが多い。鎌倉は初めてという人がまずを訪れるところ。
 石段下左には、3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていたという大銀杏があったが、平成22年3月10日の強風で倒れた。現在根元から4mのところをすぐ横に移植して育てている。
関取場跡
 鶴岡八幡宮出て金沢街道を東へ進む。交通量の多い道だ。途中関取場跡というのがある。
 天文17年(1548)、北条氏がここに関所を設け通行人の内商人から3文、お参りの人で馬を利用している人から10文の通行税を取り、これを荏原天神社の修繕費に充てていたという。
   大正の初めから昭和の初めまでに亘って建てられた石碑。鎌倉町青年団となっているが、当時鎌倉を訪れる人たちのために建てられたものだろうが、今も良き案内役をつとめている。
 金沢街道を東へ進むと左手に杉本寺がある。  
杉本寺
 天台宗のお寺で創建は古く、寺の縁起によると天平6年(734年)光明皇后の命により、藤原房前と行基により創建されたとある。鎌倉では最も古いお寺で、坂東三十三観音の第1番札所。
仁王門を入ると正面に本堂に続く石段があり、苔むした石段は歴史を感じさせる。
 本堂は鎌倉最古の寺に相応しく茅葺の素朴な建物。本尊は行基、慈覚大師、恵心僧都作の3体の十一面観世音が安置されているが、いずれも秘仏。現在正面にあるのは建久2年(1191年)に源頼朝が寄進した運慶作の十一面観世音。   

浄妙寺
 杉本寺を出てさらに金沢街道を進むと左に小道を入って浄妙寺がある。
  鎌倉五山第五位の寺格を持つ古刹。文治4年(1188)足利義兼の創建で、 当初は密教系の寺院で極楽寺と称していたが、のち禅宗の臨済宗に改め、寺名も浄妙寺と改称した。
 足利義満が鎌倉五山を制定した頃は塔頭23院があったというが、今は総門、本堂、客殿、庫裡など。本堂は禅宗の寺らしくすっきりしている。本尊は南北朝時代の釈迦如来坐像。境内は国指定史跡となっている。

  山門前の5層の石塔は、鎌倉五山の寺格を誇った下馬塔で、鎌倉期の形を良く残している。

 妙本寺山門の脇から裏の山へ登っていくと小さな祠がある。鎌足稲荷で、藤原鎌足が乳児のとき、稲荷大神から鎌を授けられ、これをお守りとして常に身に着けていた。蘇我入鹿を討って大化の改新がなった翌年この地に来たとき、宿願を遂げたのだから授けた鎌をこの地に奉納せよとの神告があったので、鎌を舞納し、祠を営んでお祀りしたのが始まりとされている。これが鎌倉の地名の由来と言われている。

 ここから来た道を戻ることになるが、交通量が多いので、しばらく脇道を歩く。
 金沢街道に出たら、浄明寺のバス停のすぐ先で橋を渡る。報国寺への道を行き、報国寺の手前で右へ入る。「田楽辻子のみち」の標識がある。しばらく住宅街の静かな道を行く。この道はいずれ行き止まりとなるが、少し手前で標識に従って橋を渡りふたたび金沢街道へ出る。
 車に気をつけてしばらく行くと鶴岡八幡宮の大鳥居に出て、ここから段葛の道を鎌倉駅に向う。

段葛
 鶴岡八幡宮へ向って真直ぐに伸びる道。鎌倉を象徴するメインストリートとなっている道だが、もとは源頼朝が、夫人政子の安産を願って造られたものだという。この道の尽きたところを右へ行くと鎌倉駅。


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