街歩き


東慶寺から銭洗弁天を経て鎌倉大仏へ


2008.10.16歩く

コ ー ス  徒歩3時間
北鎌倉駅(5分)東慶寺(5分)浄智寺(15分)天柱峰碑(10分)葛原岡神社(10分)銭洗弁天(10分)佐助稲荷(45分)大仏坂トンネル上(30分)極楽寺(40分)鎌倉大仏(10分)江ノ電長谷駅

 800年の歴史を持つ鎌倉は古社寺や史跡だけでなく、花やグルメファンにも魅力的なところが数多くあり、奈良や京都とも違った趣のある古都である。気に入ったところを選んで自由にコース取りを考えてのんびり歩きたい。今回は北鎌倉から長谷まで、葛原が岡と裏大仏の二つのハイキングコースをつないで歩いた。

    

北鎌倉駅
 北鎌倉駅へは東京駅から横須賀線で1時間ほど。

駅前通り
 北鎌倉駅の前の車の多い鎌倉街道を左へ行く。すぐ左に線路を渡って円覚寺への入り口がある。それを見送って進むとすぐ右手に東慶寺がある。  


東慶寺
 正式には東慶総持禅寺という臨済宗のお寺。弘安8年(1285年)、北条時宗の夫人覚山尼の開山により、その子貞時が建てたと伝えられている。
 ここは縁切り寺として知られている。夫から逃れたいと願う女性が当寺へ駆け込むと離縁できるという縁起寺法が伝えられていた。この法は明治4年に廃止され、その後は裁判によることとなった。
 仏殿の泰平殿には本尊釈迦如来座像が安置されている。

 境内奥の崖にはイワタバコがびっしりと張り付いていたが、他にも季節に応じて沢山の花が目を楽しませてくれる。今はホトトギスの最盛期だった。

東慶寺を出て鎌倉街道を右へ鎌倉方面に進む。横須賀線を渡る手前で右に入ると浄智寺。

甘露の井
 浄智寺の参道を行き、総門の前にある池に架かる石の反り橋を渡ると左に鎌倉十井の一つ甘露の井があった。  

浄智寺
 浄智寺は鎌倉五山の第4位に列せられる名刹。臨済宗のお寺で、開基は北条師時。弘安4年(1281年)に没した父宗政の菩提を弔うために建てたという。総門を入り、次ぎに梵鐘を吊るす鐘楼門(山門)を通ると右手に曇華殿といわれる仏殿がある。仏殿には左から過去をあらわす阿弥陀如来、中央に現在の釈迦如来、右に未来をあらわす弥勒菩薩の三世佛を安置する。  境内は国の史跡に指定されている。

 境内から受付横の枝折戸のある裏口から出ると葛原が岡ハイキングコースに通じる道に出た。

トビ
 鎌倉には何故かトビが多い。この日も10数羽が頭上を飛び回っていた。

 はじめ舗装された道を緩やかに上がっていく。民家の裏木戸だろうか、苔むした屋根の風情が良い。

 やがて道は土と木の根の山道となり、しばらく登りが続く。

天柱峰碑
 登りだけだった道もここまで来ると終わり、ここからはほぼ緩やかな下りとなる。この辺り今は鬱蒼と木が茂っているが、かつては眺望が良かったようだ。その眺望の良さから、中国の名峰天柱峰の名を借りて付けたという。

葛原岡神社
 尾根を下って行くと広場に出た。ここから先一帯が源氏山公園で、桜のころは賑わう。公園の北の端に葛原岡神社があった。明治21年に創建されたもので、祭神は日野俊基。  日野俊基は後醍醐天皇の側近であったが、朝廷の討幕運動に加わり、それが発覚して捕らえられた。一度は釈放されたが、再度の倒幕計画も発覚し、捕らえられこの地で斬首された。

日野俊基の墓
 神社から銭洗弁天に向かう参道の途中、右に少し入ったところに墓がある。国の史跡に指定されている。

銭洗弁天
 葛原が岡から南に下り、右手にあるトンネルを抜けると社務所やみやげ物店が並ぶ賑やかな一角に出る。銭洗弁天だ。正式名は銭洗宇賀福神社という。
 神社の縁起によれば、源頼朝が鎌倉に入ってまもなく、宇賀福神という老人が夢枕に現れて説いていった洞窟内の湧き水の功徳に従ったところ、国内は平穏になったという。以来宇賀福神は福徳をもたらす神として祀られた。

 ご神体を祀る洞窟内の水は銭洗水といって鎌倉五水の一つに選ばれている。この水で洗ったお金を使うと、後に増えて戻ってくると言い伝えられていて、商売繁盛を願う会社やお店では大量の5円玉をここで洗い、お正月などに顧客に配っている。
 遠足で来た小学生たちだろうか、揃って大切そうに洗っていた。

 境内の左奥から細い道に入っていくと、銭洗弁財天と彫られた石標があった。ここを左へ住宅地の中の道を行く。突き当りを右に行くと佐助稲荷の下社があり、その先に赤い鳥居が見えてくる。  

佐助稲荷
 赤い鳥居が沢山並ぶ中を登っていくと、山の斜面に拝殿とその奥に本殿がある。縁起によれば、源頼朝が伊豆に流されていたとき、ある夜鎌倉の稲荷だという神が夢枕にあらわれ、「私は鎌倉鎮座の神である。早く兵をおこして平家を討伐し、天下を統一せよ。」と告げていったという。  頼朝は鎌倉に入ると、神のお告げに感謝して畠山重忠に社殿を造らせたという。佐助の社名は、頼朝の通称佐殿を助けたという意味で付けられたという。

 社殿脇から後ろの山へ急な道を登る。辺り一帯に苔生した石祠があり、数多くの陶器の狐が供えられていた。

 尾根に上りつき、右へ行くと裏大仏ハイキングコース。歩きよい道が続く。途中新大仏坂トンネルの上を通ると長谷貯水池に出る。ここから舗装された住宅地の中の道を下っていく。稲村ガ崎小学校のところで左へ行くと江ノ電を跨ぐ桜橋。その手前を右に入ると極楽寺。すぐ前に江ノ電極楽寺駅がある。

極楽寺
 正元元年(1259年)北条重時が忍性を迎えて建てたと伝える真言律宗のお寺。今の境内はさほど広くないが、最盛期には七堂伽藍が整い、300に近い堂塔があったという。今の稲村ガ崎小学校や周辺の住宅地が境内であった。  応永32年(1425年)の火災で多くの堂塔を失い、現在は吉祥院の建物が本堂として残っている。本尊は釈迦如来立像(国重文)。鎌倉期の十大弟子像、釈迦如来坐像、密教法具(いずれも十分)とともに宝物館に安置されている。

星の井
 極楽寺を出て桜橋を渡り、極楽寺切通しの極楽寺坂を下る。左に日限を限ってお願いをするとその日までに願いが叶えられるという日限六地蔵を見て先に進むと星の井がある。  鎌倉十井のひとつで、昔、この井戸の中に昼間でも星の影が見えたということからこの名が付いた。  さらに先に進み、力餅家の角を左に行くと突き当たりに鎌倉権五郎景政を祭神とする御霊神社がある。ここから右へ行くと長谷通りに出て左へ行くと高徳院。  

高徳院
 鎌倉のシンボルとして鎌倉大仏の名で親しまれている高徳院。資料が少なく起源についは明らかでないが、浄光の開山により暦仁元年(1238年)木造の大仏と大仏殿を建て始めたのが起源とされている。その後度重なる地震や津波で荒廃したが、増上寺の祐天上人が復興を発願し、堂塔を建て、正徳2年(1712年)大異山高徳院清浄泉寺という浄土宗のお寺にし、現在に至っている。

鎌倉大仏
 露座の大仏として知られるが、創建当初は木造の阿弥陀如来であった。建長4年(1252年)に金造で鋳造された。当初は奈良の大仏同様大仏殿の中に鎮座していたが、度々の地震や津波で壊され、露座のままになっている。仏身の高さは11.3m(奈良の大仏は約15m)。
 横から見ると顔を前に伏せて若干猫背に見えるが、これが正面から見上げると優しく慈愛を込めて見つめているように見える。
 境内の一角に与謝野晶子の歌碑がある。
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
  美男におわす夏木立かな」
ただし、釈迦は阿弥陀の誤り。

 高徳院からもとの長谷通りを戻り、長谷駅へ。
 長谷観音前の信号のある交差点を右に行くと長谷寺。今回は時間切れで省略した。
 途中にある鎌倉彫の工房と住宅を兼ねた建物は、城郭風と寺院風をあわせたような特異な造り。鎌倉市の景観重要建築物に指定されている。  
長谷駅
 ここから江ノ電で鎌倉駅に戻る。


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