里山歩き


取手から利根町へ


2008.3.23歩く

コ ー ス  徒歩3時間33分
JR常磐線取手駅(10分)長禅寺(8分)旧取手宿本陣(2分)八坂神社(5分)利根川堤(3分)小堀の渡し(40分)祖野谷排水機場(45分)戸田井橋(50分)琴平神社・徳満寺(10分)来見寺(10分)柳田國男記念公苑(10分)赤松宗旦旧居跡(20分)JR成田線布佐駅

取手は平将門の時代現在の長禅寺のある高台に砦の築いたところ。また、水戸街道の取手宿のあったところでもあり、見るべきものが多い。利根町は民俗学の父と言われる柳田國男、「利根川図志」を著した赤松宗旦ゆかりの地である。この二つの町を結ぶ利根川の遊歩道を心地よい春風に頬を撫ぜられながら歩いた。

    

取手駅東口
 常磐線取手駅へは上野から快速電車で40分。後方出口から東口に出る。
 駅前の通りを渡り右へ。すぐに左へ大師通りを入る。正面の丘が長禅寺の境内。その裾に商店が並んでおり、これに沿って右へ道なりに進む。すぐ左に境内に入る細い石段があるが、これを通り過ぎてさらに先の正門から入ろう。

長禅寺山門
 長禅寺は、大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派のお寺。
 縁起によると、承平元年(931年)に、平将門が勅願所として創建したと伝える。本尊は延命地蔵尊。将門死後一時荒廃したが、承久元年(1219年)に義門和尚によって再興されたと伝えられている。
 長禅寺は山号からも分かるように、最初旧大鹿村(現在の取手競輪場近くの白山)に建てられたが、江戸時代の初め、取手宿が出来ると共に現在地に移建された。この地は将門の頃砦の築かれていたところ。取手の地名はこの砦に由来するという。


本堂
 長禅寺は、江戸時代に観覚光音禅師が開いた新四国相馬霊場八十八ヶ所の発願・結願寺である。境内には5番札所もある。
 また、ここには取手七福神の大黒天が安置されている。  

三世堂
 縁起によれば、文暦元年(1234年)に織部時平が、平将門の守本尊である十一面観音菩薩像を安置するために建立したという。現在の建物は宝暦13年(1763年)に再建されたもの。
 外からは2層に見えるが、内部は3層で、入口から順路に沿って進むと途中交差することなく3層まで行って一巡できるという「さざえ堂」形式になっている。数少ないさざえ堂の中でも最古のもの。県指定文化財。
 百観音堂ともいい、将門の守本尊と伝える十一面観音と坂東三十三ヵ所、西国三十三ヵ所、秩父三十四個所の百観音を安置している。

   下の石段を下り、先の旧水戸街道を左へ5分ほどで左に旧取手宿本陣染野家住宅がある。

旧取手宿本陣
 天和・貞享年間(1681〜1688年)に水戸街道が整備され、取手宿が置かれると、代々名主を勤めていた染野家が水戸徳川家の本陣として指定された。主屋は寛政7年(1795年)に建てられたもので、水戸街道に現存する本陣の中では最も古く、大きい。金、土、日に限って中を見ることができる。

 ここを出てすぐ先の信号を反対側に渡ると角に八坂神社がある。

八坂神社
 八坂神社は寛永3年(1626年)の創建で素盞嗚命を祭神として祀る。本殿は明治36年(1903年)に改築されたもので周囲の彫刻が見事。
 毎年8月1日から3日まで行われる例大祭に担がれる神輿は、大きさ重さとも関東随一で、80人ほどの担ぎ手によって担がれ「荒みこし」として有名。

 八坂神社の横を進むと正面に利根川の堤防が見える。

取手緑地運動公園
 堤防に上がると広々とした利根の流れと河川敷が広がっている。河川敷にはいくつものグランドが整備されていて、野球、テニス、ウォーキングにサイクリングと思い思いのスポーツに興じていた。  

小堀の渡し場
 利根川の対岸我孫子側に小掘りと書いて「おおぼり」という地区がある。取手市の飛び地となっている。
 ここの住民のために渡し舟が運行されていて1日6往復している。1回100円だが、小堀の居住者、12歳未満の子供と70歳以上の高齢者、介護を必要とする人は無料。ただし、毎週水曜日と年末年始は運休。また荒天時には欠航することもある。
 所要時間10分あまりだが、のんびりと利根の川風に当たりながら揺られるのもいい。  

サイクリングロード
 運動公園から終着の利根町栄橋まで、河川敷とは思えないような木立があり、舗装された道が延々と続く。

相野谷川排水機場
 道は相野谷川に突き当たるので、左へ一旦堤防に上がり相野谷川排水機場の閘門で相野谷川を渡る。この辺で行程の3分の1くらい。

小貝川
 再び河川敷の中の道を行く。左に大きな建物が見えるが、東京芸術大学の校舎。これを過ぎると小貝川。小貝川の右岸を少し遡って戸田井橋で対岸に渡る。

利根川と小貝川の合流点
 小貝川の左岸を下って行くとやがて利根川に合流する。向こう側は我孫子市布佐の町。手前が茨城県利根町。再び利根川の堤防を行く。

琴平神社
 堤防歩きも栄橋が見えてくるとほぼ終り。橋の少し手前で左に降りる道があるので、それを降りると角に琴平神社の石段がある。上りきった狭い境内の奥に本殿がある。  かつて毎年8月10日に祭礼相撲が行われていて、近在から大勢の見物客が訪れ、境内の木に鈴なりになって見物したという。小林一茶の句に
 べったりと 人のなる木や 宮相撲
というのがあるが、その様子を詠ったもの。境内に句碑がある。宮相撲は今も子供相撲として引き継がれているという。

徳満寺
 琴平神社のすぐ横にある。この辺りの高台が戦国時代の豊島氏の布川城のあったところで、本丸跡に徳満寺が建てられた。
 徳満寺は真言宗のお寺。本尊は地蔵菩薩立像で、元禄年間(1688〜1704年)に地蔵堂が建てられ安置された。 この地蔵像年に1度の開帳で、これに合わせて市も立ち大変賑わったという。その賑わいの様子が、赤松宗旦の「利根川図志」の図からも伺える。

間引きの絵馬
 徳満寺の本堂にかけられている。天明の大飢饉他度重なる水災害による貧困で明治の頃まで間引きの悪習があったという。わが子を自らの手で殺さなければならなかった様子が描かれていて、障子に映る女の影には角が生えている。
 柳田國男は少年の頃この絵馬を見て大変な衝撃を受け、「その意味を、私は子供子心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。」と後に書いている。それが後に農政学、さらに民俗学を目指す動機になったという。
 徳満寺を出て東へ道なりに進むと10分ほどで来見寺がある。
来見寺
 来見寺は永禄3年(1560年)府川城主であった豊島頼継により創建された。はじめ頼継寺(らいけいじ) と言っていたが、徳川家康の上意により来見寺に改めたという。正門は宝暦5年(1755年)に再建されたもので、当寺で最も古い建物。家康ゆかりの寺ということで赤く塗ることを許され、赤門と言っている。当寺の住職日山が、遠州にいた頃家康の知遇を得ていたことによるらしい。「利根川図志」によると豊島頼継が「来たり見た」ので名を改めさせたとあるから面白い。
 来見寺から道なりにさらに進み、案内板に従って左に折れるとすぐ先に柳田記念公苑がある。

柳田國男記念公苑
 民俗学の父といわれる柳田國男は兵庫県の辻川で生まれるが、13歳の時長兄鼎が布川の小川家の離れを借りて開業していた済衆医院で2年余り過ごした。小川家も代々学者で、小川家の蔵には数多くの蔵書が詰まっていた。國男はこれらの本を自由に読ませてもらい、利根川図志始め次々と濫読したという。
 ここでの読書経験や屋敷内にあった祠での不思議な体験、先の間引き絵馬から受けた衝撃などが後に民俗学への道を歩ませる動機になった。
 元の利根町役場跡に小川家の屋敷と蔵が移築されていて、柳田國男記念公苑となっている。

赤松宗旦旧居跡
 元の道を戻り来見寺の前の道を南下すると利根川沿いの道に出る。道路を渡ってすぐ右にある。
 赤松宗旦義知は文化3年(1806年)当地布川に生まれ、医業を営むかたわら利根川周辺を探訪し、利根川にまつわる歴史、自然、物産、伝説、寺社等について詳しく調べ、「利根川図志」として6巻にまとめ安政5年(1858年)に出版した。後年柳田國男も高く評価している。
 現在の建物は旧居跡に、当時の建物に近い形で新しく建てられたもの。

栄橋
 赤松宗旦旧居跡のすぐ先に見える栄橋で利根川を渡ると我孫子市。道なりに左へカーブし、最初の信号を右折するとJR成田線布佐駅だ。


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