街歩き


水戸 弘道館から偕楽園を歩く


2010.3.3歩く

コ ー ス  徒歩約2時間40分分
JR常磐線水戸駅(8分)義公生誕の地(10分)薬医門(15分)弘道館(25分)水戸市立博物館(8分)水戸芸術館(15分)神応寺(10分)信願寺(10分)茨城県立歴史館(9分)偕楽園(1分)常磐神社(30分)藤田東湖生誕の地(10分)東照宮(10分)水戸駅

 水戸は、鎌倉のはじめ馬場資幹が館を築いたのが始まりで、その後江戸氏経て、天正18年(1590年)より佐竹氏が治めるようになるが、関が原の戦いで佐竹氏は西軍に付いたため、戦後家康により秋田に移封させられる。
 その後水戸は奥羽地方の押さえの拠点として重要なところから、家康の11子頼房を入れ、ここに御三家の一つ水戸徳川家が誕生した。
 光圀による大日本史の編纂や弘道館での学問への取り組みから水戸学が生まれ、これが幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた。

 城下町水戸市内には弘道館や偕楽園をはじめ史跡や遺跡が多い。かなり急ぎ足で回った。ゆっくり楽しもうと思えば1日や2日では無理のようだ。



JR常磐線水戸駅
 上野から常磐線特急で水戸まで1時間5分。普通列車だと2時間5分で着く。
 駅を北口に出ると橋上広場の右奥に黄門様と、格さん助さんの像が迎えてくれる。
 黄門像の前から北端の階段を下りると国道51号線。これを右へ、歩道橋で51号線を渡り左に国道に沿っていくと50mほどで右手にかわいい黄門神社があるが、ここが義公生誕の地といわれている。

義公生誕の地
 ここは水戸藩家臣三木仁兵衛之次の屋敷のあったところ。水戸2代藩主となる光圀はこの三木屋敷で誕生した。
 初代藩主頼房の子が、何故城内でもなく、藩邸でもないここで誕生したのか。
 頼房は正室を持たず、側女の久子に懐妊させたが、三木に「水にせよ」と命じたという。しかし、三木は君命に背き、久子をいたわって密かにこの地で安産させたという。(稲垣史生「水戸黄門」成美文庫)

 黄門神社の後ろの道を東へ住宅地の中の道を行くとJR水郡線に突き当たる。これを線路に沿って左へ、51号線を潜り緩やかに上がっていく。左側には県立水戸第三高校があり、右手水郡線を挟んで向こう側に県立第一高校がある。正面高台は水戸城本丸の隅櫓があった所。

 すぐに水戸城跡通りに出た。ここを右折して、水郡線を本城橋で渡ると水戸城本丸のあったところ。今は第一高校の敷地となっている。
 なお、この水郡線は水戸城の空堀の中を走っている。  

薬医門(橋詰門)
 第一高校の校内に入ってすぐのところにある。元は本城橋の袂にあった本丸の表門と見られているが、維新後に各地に移築され、昭和56年に現在地に移築復元された。
 旧水戸城の現存する唯一の建物で、安土・桃山時代の建築様式が見られることから、佐竹氏時代(1591〜1602年)のものといわれている。

水戸城跡の大シイ(天然記念物)
 元の本城橋を渡り返し、水戸城通りを西へ進む。この辺り三の丸跡。左は茨城師範学校があったところで、現在は水戸第三高校。右が水戸彰考館があったところで、現在は水戸二中となっている。
 弘道館との中間あたりに樹齢約400年と推定されるスダジイがある。樹高20m。目通り4.3m。戦国時代から自生していたものと伝えられる。スダジイはこの辺りが北限に近く、市の天然記念物に指定されている。
水戸彰考館跡
 光圀が「大日本史」の編纂を思い立ったのは明暦3年(1657年)。江戸の藩邸に史局を置いて始められた。その後小石川の藩邸に移し彰考館と命名。元禄3年(1690年)光圀が西山荘に隠居したのに伴い彰考館もここに移転し、編纂が続けられた。さらに維新後は偕楽園に移り、明治39年(1906年)に全402巻がようやく完成。実に250年を要し、光圀死後206年が経っていた。
 日本書紀では認めていなかった大友皇子の弘文天皇即位を光圀は認めている。またこの大日本史に流れる尊王論が幕末の尊皇攘夷思想を生み出した。

徳川頼房公像
 彰考館跡から鉤型に曲がる道を進むと大手橋の袂に頼房公の像があった。
 頼房は徳川家康の63歳の時の子で、第11子。幼名を鶴千代といい、小さい頃から大物振りを発揮し、家康を感心させていた。また末っ子ということもあってかわいがっていたという。このため7歳にして水戸藩という大事な藩を任され、初代藩主となった。
 頼房や光圀、斉昭、朱舜水、藤田東湖など水戸藩所縁の著名人の像が市内あちらこちらに建てられていた。

大手橋
 二の丸・三の丸を囲む堀の上に掛けられた橋で、ここを渡ると弘道館。手前にはかつて大手門があったが、明治初年に取り壊された。
 幕末水戸藩では尊攘派の天狗党と保守佐幕派の諸生党が対立し、各地で内乱を起こした。ここでも弘道館を占拠した佐幕派と主力軍との間で戦いがあった。弘道館入口の正門には今もその時の弾痕が残っていた。

弘道館
 天保12年(1841年)、国の独立と発展のためには人材の育成が大事と、藩政改革を推進した九代斉昭が創立した。当時は講義や試験などを行う正庁を中心に、文館、武館、薬草園を持つ医学館、天文、数学などの施設があり、各藩の藩校の中でも最大級のものだった。国の特別史跡に指定されている。
 最後の将軍慶喜も5歳の頃よりここで学び、大政奉還後はやはりここで謹慎している。  

弘道館梅林
 弘道館を出て北隣から西へかけては梅林となっている。60種800本の梅が馥郁たる香りを漂わせていた。
 ここは乗馬や射撃訓練が行われていたところで、梅林内には鹿島神社、孔子廟の他、弘道館記碑をおさめた八卦堂、斉昭が弘道館や偕楽園に梅を植えさせた由来を記す種梅記碑、斉昭自作の学生警鐘などがある。

水戸市水道低区配水塔
 梅林を出て空堀を渡り西へ向かうと遠くにおとぎの国のお城のような瀟洒な建物が見えてきた。
 この辺りは台地になっていて、すぐ先の低地への配水を目的として昭和7年に作られた配水塔とのこと。ゴシック調の装飾など施されていて優雅な建物。有形登録文化財として登録されている。

水戸東武館
 配水塔の前をさらに進むと水戸東武館がある。北辰一刀流の系譜を継ぐ道場で、今もやぁーやぁーという声と共に竹刀の打ち合う音が聞こえてきた。水戸学は文武両道が目的。その水戸っぽの精神が今も受け継がれているようだ。

 道をさらに西へ進むと、国道349号線に出る。ここが気象台下の交差点。左前方に水戸のシンボルともなった水戸芸術館のタワーが見えてきた。ここを左折する。

水戸市立博物館
 交差点から南へ少しで水戸市の図書館と併設して博物館があった。水戸市の歴史や民俗、自然などについて展示紹介されていた。入館は無料だが、4階で催される特別企画展は有料となっている。

水戸芸術館
 博物館を出て南へ2本目の芸術館通りを右に折れるとすぐにある。  文化による町おこしを目的として、平成2年に市制100周年を記念して建てられた。道路に面して広い芝生広場があり、それを取り囲むようにしてACM劇場、コンサートホールATM、現代美術ギャラリー、エントランスホール、タワーなどの施設があり、美術・音楽・演劇の複合施設としてそれぞれ催しが行われている。
神応寺
 芸術館を出て南へ国道50号線に出る。デパートや商店が並ぶ水戸のメインストリートを西へ行き、大工町の交差点を左折すると程無く右手に神応寺がある。
 天正19年(1591年)佐竹義宣の招きを受けた遊行上人普光の開基による時宗のお寺。藤沢市にある時宗の総本山清浄光寺(遊行寺)が永正10年(1513年)に戦火で全焼し、復興するまでの間当寺が本山となっていた。当初は藤沢道場といっていたが、寛永10年(1633年)に神応寺に改称された。

別雷皇太神
 神応寺のすぐ南隣にある。創建は古く、神亀元年(724年)常陸国主藤原宇合が勅命により蝦夷征伐に行くとき、京都の加茂別雷神社より分祀したと伝えている。佐竹氏、水戸徳川氏から雷難消除、武運長久の守護神として信仰を集めてきたが、昭和20年8月の戦災で焼失、昭和43年に再建された。

信願寺
 別雷皇太神を出て元の道を戻り、神応寺の1本北の道を左折する。静かな住宅地の中の道を突き当たると左へ。すぐ右に信願寺がある。浄土真宗のお寺で、親鸞聖人の弟子唯心の開基と伝える。本尊は鎌倉時代の銅像阿弥陀如来立像。本堂の前にある親鸞夫妻と信連坊の行脚像が目を引く。

県立歴史館
 信願寺を出て右へ進む。しばらくで信号機のある交差点だが、ここを渡るとそこはもう広大な歴史館の一角だ。入口は右へ200mほど行ったところ。
 歴史館は明治100年記念事業の一環として開館したもので、茨城県の歴史を原始・古代から現在に至るまで13のテーマに区分して実物資料を初めとして、グラフィックパネル、模型、レプリカなどを使用して分かりやすく展示している。

旧水海道小本館
 歴史館の広い庭園内には県内にあったいくつかの文化財が移築されている。これもその一つ。はじめ明治14年に水海道市横町に建てられ、その後大正10年同市栄町に移築されたが、この時大改造が加えられた。当地に移管された際、明治14年創建当時の資料を基に元の姿に復元されたという。いわゆる明治洋風建築で明治10年代の建物としては県下唯一のもの。昭和33年に県の指定文化財として指定された。
 館内には当時の教科書などが展示されている。

偕楽園
 歴史館を出て先程の交差点を南に渡り真直ぐ進むと日本三名園の一つ偕楽園の御成門。偕楽園は斉昭が孔子の「一張一弛」の言葉により、「民と偕(ともに)に楽しむ場」として天保13年(1842年)に文武修行の場の弘道館に対し開設したもの。名前のとおり、藩主や藩士はもとより一般庶民にも解放されていた。
 2層3階の好文亭は斉昭自らの設計によるもので、ここに文人墨客や家臣、領民などを集めて詩歌の会などを催していたという。建物は昭和20年の戦火で全焼し、昭和32年に復元したもの。

梅林
 園内の梅林は有名だが、開設当時は1万本の梅が植えられ、非常用あるいは軍用の梅干に利用されていた。今は凡そ100種3000本が見事な花を咲かせている。また梅が終われば桜。夏は躑躅。秋は紅葉と、四季折々の花が楽しめる。なおJRでは、2・3月の梅まつり開催中は、土・日・祝日の下り列車に限りすぐ下にある偕楽園駅に臨時停車する。

常磐神社
 偕楽園の東門を出るとすぐに常磐神社の境内に入る。ここは明治の初め、光圀(義公)、斉昭(烈公)の徳を偲んで偕楽園内に祠堂を建てられたのを、明治7年にこの地に常磐神社として造営されたもの。祭神は、高譲味道根之命(光圀公)、押健男国之御楯命(斉昭公)。なおここも昭和20年の戦火で焼失、33年に再建された。
 境内に光圀、斉昭の遺品や遺墨、水戸史学、水戸学関係の資料などを展示する「義烈館」がある。
藤田東湖生誕の地
 常磐神社の参道である長い石段を降りるとJR偕楽園駅。ここを線路に沿って道なりに水戸駅の方に進む。千波大橋から来る道との交差点で信号を左(北)に渡り、しばらく行くと道脇に東湖の銅像と東湖が産湯に使ったという井戸があった。
 東湖は江戸後期の儒学者で水戸学の創始者藤田幽谷の次男としてこの地で生まれた。藩主斉昭の腹心として藩政の改革を推進し、郡奉行など務める。藩校弘道館の創設に尽力するとともに、「弘道館記述義」を著し、幕末の志士に大きな影響を与えた。安政の大地震に見舞われ圧死したという。

藤田幽谷生誕の地
 東湖生誕の地の50mほど先を右折し、緩やかに下っていくと藤田幽谷生誕の地の石標があった。
 幽谷は江戸後期の儒学者で水戸藩士。天明8年(1788年)15歳で彰考館に入り、寛政3年(1791年)に編修となり、「大日本史」の編纂に従事、後総裁となる。水戸藩士の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた。

東照宮
 道を先に進み、県道50号の広い通りに出たところで左折。少し先を左に入ると長い石段がある。上り詰めて台地上に上がると東照宮の境内。元和7年(1621年)藩主頼房が父家康の霊を祀るために建立した。昭和11年には頼房も祭られた。ここには頼房が奉納した家康愛刀の、備前国一文字派則包作の太刀(国重文)や常葉山の時鐘、安神車などがある。

駅への道
 元の長い石段を降りると、そこは駅に近い飲食店街だった。駅まではほんの4・5分、渇いた喉を潤し、空腹を満たすのにはちょうど良かったのだが、この日は時間が少し早かったのかほとんどのお店は仕込み中の看板が出ていた。




ホーム トップ