街歩き
飯盛山から鶴ヶ城へ
2005.11.03歩く
会津若松といえば戊辰戦争に白虎隊と鶴ヶ城。飯盛山から武家屋敷に至る南北に走る道は「いにしえ夢街道」と呼ばれ、沿道には歴史に彩られた史跡や、郷土の品を扱う店が点在する。今回は飯盛山から鶴ヶ城まで歩いた。距離にすれば5km強2時間たらずだが、見るべきものが多くたっぷり1日はほしい。 出発点の旧滝沢本陣までは、会津若松駅から まちなか周遊バス「ハイカラさん」が運行されている。ただし運行ルートは今回歩いた順路とは逆コースになるので多少時間が掛かる。 |
旧滝沢本陣 歴代会津藩主が江戸おもてへの参勤交代の折、城を出て先ずここで休息し、旅仕度を整えたという。 この地方の郷頭を勤めた横山氏の住居。延宝6年(1678年)の建築で、建物や遠州流の庭園が当時のまま保存されており、東北地方最古の民家として国の重要文化財に指定されている。 |
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この滝沢本陣は戊辰戦争の折会津藩大本営が置かれ、薩長を中心とする官軍との間で激しい攻防が繰り広げられたところ。 邸内の柱や板壁などには弾痕や刀傷が今も生々しく保存されており、当時の戦いの激しさを窺い知ることが出来る。 |
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さざえ堂 旧滝沢本陣の前の「近道」を南下すると旧参道に突き当たる。ここを左に行くとさざえ堂から飯盛山だが、その前に右手にある白虎隊記念館に入り戊辰戦争や白虎隊について予備知識を整理していこう。 さざえ堂は、円通三匝堂(さんそうどう)といい、寛政8年(1796年)僧郁堂が建立した六角三層の観音堂。内部は螺旋状のスロープになっていて、3層まで上っていくとそのまま同じところを通らないで降りてこられるようになっている。 |
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白虎隊士の墓 さざえ堂の横を緩やかに登るとすぐ、飯盛山の中腹にある。正面に自刃した白虎隊士19人の墓石が並び、右側に戦死した31人の墓がある。昭和32年には自刃した隊士のうちただ1人生き残った飯沼貞吉の墓も設けられた。 今も訪れる人が多く、香煙が絶えない。 |
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飯盛山から鶴ヶ城を望む 戸ノ口原で戦っていた白虎隊士(16〜17歳の少年隊)20人は、官軍の猛攻に敗れ、城での決戦に挑もうとここまで戻ってくる。が、ここで見たのは既に城が炎上する姿であった。彼らは最早城は落ちたものと思いこの地での自刃を覚悟する。 |
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白虎隊士自刃の地 隊士はそれぞれ自らあるいはお互いに刺し違えて命を絶った。しかしたまたま通りかかった近くの婦人に、一人瀕死の状態であった飯沼貞吉が助けられ蘇生した。そして炎上しているのは城を取り巻く武家屋敷などで、城はまだ落ちていないことを知らされる。 一人生き残った飯沼貞吉により白虎隊の悲劇が伝えられた。 |
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会津駄菓子資料館 飯盛山を下っていにしえ夢街道に出る。この街道を南に向かうと右手にある。寛永元年(1848年)創業の会津駄菓子の本家長門屋の資料館。1階は駄菓子の売店。2階は資料館(無料)になっていて、懐かしい玩具や駄菓子に関する資料を展示している。 |
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手作り体験ひろば 番匠 会津駄菓子資料館をさらに進むと右手にある。 会津の民芸品といえば赤べこ。赤べこは厄除けのお守りとして会津に伝わるもので、ここではその赤べこの絵付けが体験できる。 |
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大龍寺 番匠からさらに進むと左手にある。寛永20年(1643年)会津藩主保科正之の開基による禅宗のお寺。 |
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会津松本東西館 大龍寺を後にいにしえ夢街道を南へ少し行った右手。 伝統の会津桐を使った箪笥や下駄などの製造直売店。 お隣道路に面したところにある建物は奥会津只見から移築した古い曲がり屋。桐屋夢見亭で、1日50食限定の飯豊権現そば、会津頑固そば(何が権現で、頑固か分からないが)や会津料理が味わえる。頑固そばとビール1本を注文したらすかさず車じゃないですねといわれたのはさすが。 |
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近藤勇の墓 桐屋夢見亭の前の道路を横切り、山肌につけられた急で長い階段を上ると愛宕神社で、そこから30mほど先に丸に三つ引きの家紋の入った墓石があった。 新撰組は会津藩と共に転戦してきたが、組長近藤勇は千葉県流山で捕らえられ東京板橋で斬首された。首は京都三条河原に晒されたが、後土方歳三の手によってこの地に遺髪が納められ、墓は会津藩によって建てられたと伝える。 ここから山道を下って行くと天寧寺の本堂に出る。 |
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天寧寺 応永28年(1421年)、11代葦名盛信の建立による曹洞宗のお寺。 近藤勇の墓はこの寺の境内、広い墓地のはずれにある。 天寧寺を出て民家の間の参道を下って行くと奴郎ヶ前の交差点。真直ぐ進めば鶴ヶ城。左へ少し行ったところに会津武家屋敷がある。 |
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会津武家屋敷 38室もあるという会津藩家老西郷頼母の屋敷や、代官所の中畑陣屋を復元したもの。 西郷家は代々会津藩筆頭家老であったが、藩主松平容保に京都守護職の命が下ったときに「火中の栗を拾うようなもの」として辞退を進言したり、戊辰戦争が始まってからもあくまで恭順を説くが受け容れられず、しばしば謹慎を命じられた。一族21人自刃の後も数奇な運命をたどり、明治36年74歳の生涯を閉じた。 |
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鶴ヶ城 武家屋敷を出て今日の最終目的地鶴ヶ城へ向かう。 鶴が舞うような優雅な姿から鶴ヶ城と名付けられたが、なるほど美しい城だ。 至徳元年(1384年)葦名直盛が東黒川館を築いたのが始まり。その後伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明と続き、嘉永20年(1696年)保科正之が23万石で入部(3代正容のときに松平の姓を与えられる)。慶応4年(1868年)9代松平容保の代に戊辰戦争で敗れ開城するまで続く。 明治7年(1874年)城は取り壊されるが、昭和40年(1965年)天守閣は現在の姿に再建された。 |
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会津葵 鶴ヶ城北口の入り口にある会津葵本店。もとは会津藩御用の薬問屋。自家製の餡をカステラ地で包んだ焼き菓子「会津葵」がこの店の看板。お土産に良い。 |