街歩き


手児奈霊堂から下総国分寺へ


2006.04.04歩く

コ ー ス  徒歩2時間
京成市川真間駅(15分)いちかわ文学の道(15分)真間の継橋(3分)弘法寺(3分)手児奈霊堂(1分)亀井院(20分)下総国分寺(10分)下総国分尼寺跡(15分)じゅんさい池緑地(18分)里見公園(5分)総寧寺(20分)京成国府台駅

万葉の時代、都にまで聞こえ、万葉集にも歌われた美少女手児奈を偲びつつ、下総の国に建立された国分僧寺・尼寺の跡を尋ねて来ました。ちょうど桜のシーズンにあたり、文学の道、弘法寺、里見公園といずれも素晴らしい桜が迎えてくれました。
また、国府台には律令制下の役所である国府が置かれていました。場所は国分尼寺跡の西方にある六所神社跡あたりだろうといわれていますが、はっきりしません。完全な発掘調査の前に公共の建物や民家が建ち並んでしまい、調査が難しいようです。

   

京成・市川真間駅
スタートとなる市川真間駅へは、京成上野駅から普通で31分。

改札口を出ると右(北)へ、階段を下りて正面へ線路に沿って100mほど進むと踏み切りのあるバス道に出る。ここを右へ200mほど行き、突き当たり信号のあるところを右へさらに350mほど行くと五差路のところからいちかわ文学の道が始まる。

いちかわ文学の道
車道と平行して遊歩道が続く。車道との間に大きな桜並木があり、満開の桜を楽しみながら歩いた。
ここはどう見ても遊歩道だが、正式には「桜土手公園」。所々にベンチや子供用の遊具も置かれている。別名「文学の道」とも呼ばれている。これは市川市が、市川ゆかりの作家の中から特に関係の深い、北原白秋、幸田露伴、永井荷風の跡をたどる道として京成八幡から里見公園までを文学の道として制定したもので、ここはその一部区間。3名のほか、市川ゆかりの作家の紹介板も設置されている。


手児奈橋公園
桜土手公園を進むと真間川に突き当たる。ここを左へ川沿いに行くが、こちらも桜並木。ここは手児奈橋公園とか。川向こうに真間小学校を見て、手児奈橋を過ぎ、次の入り江橋を右に渡る。

真間の継橋
かって東京湾の入り江がこの辺りまで寄せていた。そこに流れ込む江戸川の河口にはいくつもの砂州があり、その砂州と砂州をつなぐのが継橋といわれ、これもそのひとつ。
 足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の
   真間の継橋 やまず通はむ 東歌
と、万葉集に歌われた真間の継橋はここだろうとされている。
(手児奈の許へ) 忍び通いたい男たちにとって、足音の立てない馬がいたらいいのに、という願いか。   

弘法寺
継橋を過ぎ、直進すると突き当たりに急な石段があり、これを登った台地上に弘法寺があった。
天平9年(737年)、行基が手児奈の霊を慰めるために堂を建てたのが始まりといわれ、その後弘仁13年(822年)に弘法大師が伽藍を建立したと伝えられている。
大きな仁王門を潜ると、広い境内に祖師堂、書院、客殿、方丈、鐘楼などが建ち並んでいた。

伏姫桜
ここは桜と紅葉の名所として知られており、ちょうど桜が今が盛りと咲き誇っていた。特に写真の枝垂桜「伏姫桜」は名高い。こちらは数日遅く、盛んに花びらを散らしていた。

元に戻り、石段を降りて継橋の少し手前で左に参道を入ると手児奈霊堂がある。   

手児奈霊堂
あまりの美しさのため多くの男に言い寄られ、また男同士が争うのを知り、それを悩み苦しんで身を投じて死んだという手児奈の霊を慰めるために建てられたという。
手児は東国語で娘のこと。奈は愛称。  

亀井院
手児奈霊堂の横から北側の通りに出ると、通りを隔ててすぐ先にある。
寛永12年(1635年)、弘法寺の貫主の隠居寺として建立されたもので、当初は瓶井坊と称されていた。
北原白秋が大正15年5月半ばから1ヵ月半ほど過ごしたところとして知られているが、この頃が白秋の生活の最も困窮した頃らしく歌にも良く現われている。
 米櫃に米の幽かに音するは
     白玉のごと果敢かりけり  

真間の井
万葉の歌人高橋虫麻呂が
 勝鹿の真間の井見れば立ち平し
    水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
(ああ、手児奈はここに立って水を汲んでいたんだろうなぁ)
と歌った真間の井は、亀井院の庭にあるこの井戸と伝えている。
もっとも今の井戸は後に作られたもので、元は窪地に水が溜まっている程度のものだったらしく、この辺りにあったと言うことだろう。  

亀井院を出て左へ。寺の東側の道を北上する。途中千葉商科大への道を左に分け、道なりに北東方向に進む。曲がりくねった細い道で、脇道が多いので分かりづらいが、道なりに広い道をとって行く。狭い割に車の往来が激しいので注意したい。 やがて左前方に国分寺の南門が見えてくる。  

国分寺(下総国分寺跡)
天平13年(741年)聖武天皇が発せられた詔により諸国に国分僧寺・尼寺が建立されたが、下総国分寺は下総の国府近くの当地に建立された。
 

講堂跡
伽藍配置は、南大門があり、入って右に金堂、左に七重塔、両堂塔の奥に講堂と法隆寺式伽藍配置となっている。
現在の国分寺本堂は金堂跡に建てられており、講堂跡は墓地の一角に保存されている。

東門を出て左へ左へと寺を回り込むようにしていき、しばらくは道なりに北西方向に進む。やがて和洋女子大付中が見えてきて、そちらに直進する道を分け左の方へ行くと国分尼寺跡があった。  

下総国分尼寺跡
天平13年聖武天皇の詔により国分寺と共に建立された。昭和8年の発掘調査で、多くの瓦に混じって尼寺と書かれた瓦が見付かり国分尼寺跡と分かった。金堂・講堂跡が園地として保存されているが、その他の伽藍は住宅地や学校敷地となっていて不明。  

じゅんさい池緑地
国分尼寺跡の南からもう1本南の通りを右へなだらかな坂を下って行く。右手に酒屋があり、この手前を右に折れ、道なりに500mほど行くとじゅんさい池に突き当たった。車道を渡って中に入る。池は南北に500mほどの細長い池となっている。じゅんさいが自生していたので、じゅんさい池というが、梅の名所としても知られている。 渡り鳥も多く、この日もヒドリガモ、ハシビロガモ、キンクロハジロなど100羽以上が群れていた。  

手づくりマネキン?
じゅんさい池を出て右へ。カーブしながらゆるく下る道を道なりに行くと松戸街道に出る。
街道に出る少し手前に手づくりのお店。これも手づくり看板の河童だろうか、ユーモラスな出来だった。  

里見公園に続く桜並木
松戸街道を左へ、国立病院の前で右へ里見公園に通じる道はここも桜並木。ちょうど満開時で、ここでも花見を堪能した。  

里見公園
館山にあった里見氏が、下総まで勢力を伸ばそうとして北条氏との間で、1538年と1564年の2度2代にわたって戦った古戦場。結果北条氏が勝ち、この地は、北条氏が秀吉の小田原攻めで敗れるまで支配を続ける。
園内には明戸古墳や北原白秋の小岩での借家「紫烟草舎」、市内最高地点(標高30.1m)などがある。  

総寧寺
里見公園の最奥部まで進み、北の出口を出て右へ公園を回り込むと公園に隣接して総寧寺がある。もと近江の国にあった乗安寺(永徳3年(1383年)佐々木氏頼の開基)を、天正3年(1575年)北条氏政が関宿に移建し総寧寺とした。さらに寛文3年(1663年)現在地に移された。  

江戸川
総寧寺を出て先へ進むと再び里見公園の入り口に戻ってくる。 そのまま車道をゆるく下って行くと江戸川堤に出た。
ここを右へ行くと矢切の渡し。左下流に向かって右手に流れを見ながら進む。 前方に京成電車の鉄橋が見えてきて、15分ほどで本日のゴール国府台駅に着いた。  

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