街歩き
関宿を歩く
2008.4.1歩く
徳川家康が江戸入府後行われた利根川東遷の大事業により、関宿は利根川から江戸川への舟運路の拠点となり、このため人の出入りや物資を改めるための川関所が設置された。さらに北に対する軍事上の防御のための重要な場所として関宿藩を置き、家康の異父弟の松平康元を入れた。利根川東遷の様子と関宿城下の史跡を訪ねてみた。 |
千葉県立関宿城博物館 関宿へは東武野田線の川間駅又は伊勢崎線の東武動物公園駅からバスがあるが、少々不便なため車で出かけた。博物館の駐車場に車を置き、館内で予備知識を得てから街中を歩いた。 博物館はかつての関宿城を模してスーパー堤防上に建てられていて、周りに高い建物もなく遠くからでも良く見通せる。 |
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館内は博物館になっていて、「河川とそれに係わる産業」というテーマで、利根川流域の人々の生活や産業、歴史、河川改修などの様子をジオラマや模型を使って分かりやすく紹介している。かつて隅田川から東京湾に注いでいた利根川を、鬼怒川と合流して常陸川から銚子へ落とし、現在の利根川へと流れを変える利根川東遷の様子がよく分かる。 建物は3層4階建てで、4階展望室からは利根川・江戸川の流れを眼下に見下ろし、遠く筑波山、日光連山、富士山などの展望も楽しめる。 |
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中之島公園 博物館の裏側には庭園や広場がある。南方にある河川敷上の橋を渡ると中の島公園。ケヤキやサクラの木に混じって1本の大きなコブシの木がある。関東随一と言われるだけあって見事に咲き誇っていた。 中の島公園の西側に関宿水閘門がある。コンクリート造りの立派なもので、閘門上を渡ることができる。 |
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関宿水閘門 利根川はかつては自然流で東京湾に流れていた。徳川家康が江戸入府に際して河川の大改修を行い、何期もの工事の末流路を変え、常陸川に注いで現在の利根川となって銚子へ流れるようにした。このような大工事の目的は、@利根川筋の洪水防御と新田開発、A舟運路の確保、B江戸の洪水防御、C東に対する軍事的防御など言われている。その後舟運が盛んになったり、新田が開発され、石高が増えたことなどから見て、それぞれに目的があり効果があったのではないだろうか。 | |
利根川の水はここから一部江戸川に流れているが、通船と治水を目的として、江戸川に入る水量を調整するために造られたのがこの水閘門。明治3年にはじまり大正15年に完成した。 中の島公園に架かる元の橋を戻って堤防の上のサイクリングロードを南に下る。すぐ左下に関宿城祉が見えてくる。 | |
関宿城祉 この辺りは古河公方足利氏の家臣簗田氏の本拠地であったが、徳川家康の江戸入府に際し、北の護りの重要拠点として関宿藩を置き、家康の異父弟である松平康元を初代藩主として置いた。併せて舟運の拠点となったことから川関所が設置され、その運営管理も関宿藩に任された。 松平康元の後、小笠原、北条、牧野、板倉氏と続き、久世氏で廃藩置県となる。明治以降もたびたびの河川改修工事により城郭の痕跡はなくなったが、このあたりが本丸跡とされている。 | |
城址からさらに堤防の上を行くと小さな牧場があり、牛がのんびりと寝そべっていた。 | |
関宿関所跡 前方から来る車道が左へ大きくカーブするところで、江戸川の堤防を降りると「関宿関所址」の碑がある。 ここは、はじめ定船場として設置され、通行人を改めていたが、利根川の東遷により利根川と江戸川を結ぶ内陸舟運の重要な拠点となったため、川関所として江戸に入るあらゆる物資の改所の役割を果たすようになった。 ここから東へ500mほど進むと歩道橋のあるT字路の左に鈴木貫太郎記念館がある。 | |
鈴木貫太郎記念館 昭和20年の終戦時の総理大臣を勤めた鈴木貫太郎は、慶応3年(1867年)大阪府堺市の久世陣屋で、久世藩士の父由哲、母きよの子として生まれ、5歳のときに郷里関宿に戻った。長じて海軍大将、軍令部長、侍従長などを歴任、昭和20年4月に総理大臣となり8月14日にポツダム宣言を受諾。終戦と同時に辞職。22年に関宿に戻り翌年逝去する。この間2.26事件では銃弾を受けるが一命を取り止めている。 旧居跡は記念館となり、鈴木貫太郎の生涯を紹介し、遺品などを展示している。 | |
昌福寺 鈴木貫太郎記念館の前の歩道橋のある三叉路を南に向かう。この辺り古い街道筋かお寺が多い。道は広いが、利根川沿いにバイパスがあるせいか車の量はさほど多くはない。 すぐ右手に昌福寺がある。真言宗豊山派のお寺で、天長5年(829年)の創建と伝えられている。はじめ茨城県総和町水海の地に建てられたが、長禄元年(1475年)の頃足利成氏の家臣であった簗田氏がはじめて関宿に入った時に当寺も移建された。 境内にある不動堂の周囲に彫られた彫刻はすばらしい。 | |
宗英寺 昌福寺から南へ広い通りを行くと右手奥の方に宗英寺がある。慶長元年(1596年)関宿藩初代藩主松平康元により創建された禅宗のお寺。松平康元の墓がある。 山門は創建当時のもので、柱の葉彫りは珍しい。山門を入った左に2つの墓碑がある。一つは中世の古河公方足利晴氏の五輪塔。もう一つは関宿の治水事業に功績のあった関宿藩中老の船橋随庵のもの。 | |
実相寺 宗英寺を出てさらに進むと左手に日蓮宗の実相寺がある。当寺の歴史は古く、神亀元年(724年)僧行基による開山と伝えている。このお寺も昌福寺同様、はじめ茨城県総和町水海の地に建てられたが、長禄元年(1475年)の頃簗田氏がはじめて関宿に入った時に当寺も移建された。 境内にある客殿は明治4年(1871年)に関宿城の本丸の一部(宝暦6年=1709年に建造)を移築したもので、本丸の建物が現存するのは県内ではここだけ。 | |
久世家7代藩主広周は幕府老中となるが、大老井伊直弼と対立し一時罷免される。井伊大老暗殺事件後再度老中となり、公武合体運動をし、和宮降嫁を実現した。しかし後にその責任を問われ、またも老中を罷免、永蟄居を命じられ、帰藩。実相寺庫裏で蟄居する。 鈴木貫太郎の墓 実相寺は関宿藩主となった久世家の菩提寺となったため久世家歴代の藩主の位牌を安置するほか、家老職や藩士の墓がある。 終戦時の総理大臣を勤めた鈴木貫太郎の墓もここにある。 |
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道路脇にある大きなイチョウの木。根元に二十三夜塔があり、城下の街道筋の面影が偲ばれる光景だ。近くには十九夜塔もあったが、二十三夜塔、二十六夜塔はよく見かけるが、十九夜塔というのははじめて見た。 ここからバイパスに出て博物館駐車場まで戻ったが、車の量が多いので、元の道を戻っても大差がない。 |