街歩き


中山法華経寺から行田公園へ


2017.10.27歩く

コ ー ス  徒歩約1時間30分
JR総武線下総中山駅(10分)中山法華経寺(15分)奥の院(5分)若宮八幡神社(10分)明王院(5分)熊野神社(15分)行田公園入口(15分)行田公園反対側出口(15分)東武鉄道塚田駅

 日蓮上人ゆかりの中山法華経寺は関東屈指の日蓮宗の巨刹。ここに参拝し、広い境内をゆっくり見学した後、行田公園に向かう。
 この行程、途中に食事場所、コンビニ等が無いので、昼食は事前に用意しておくのがよい。少し我慢して行田公園まで行くとベンチなどの施設がある。




JR総武線下総中山駅
 最寄り駅となる下総中山駅へは東京からだと秋葉原から総武線直通で23分。
 


 下総中山駅から法華経寺の参道となる商店街を行くとほどなく京成電鉄の踏切を渡る。すぐ先に法華経寺の総門である黒門が見えている。
 この踏切のすぐ左が京成中山駅。ここへは、京成上野駅からの特急を京成八幡駅で各停に乗り換えて35分。  
 

法華経寺黒門
 踏切を渡ったすぐ先に法華経寺の総門がある。全体が黒く塗られているところから黒門と言われている。

 門の形式は本柱2本、控柱2本からなる高麗門。高麗門はもともと城門として建てられたが、後に神社や寺でも用いられるようになった。城を守る城門である以上、本来ここには頑丈な扉が付けられているが、寺や神社の場合、当然のことながらだれでも自由にお参りくださいという意味で扉が無く、吹き通しになっているケースが多い。

 建立年代は明らかではないが、江戸時代初期に建てられたものと見られている。市川市指定有形文化財。

街歩き案内所
 黒門を通るとすぐ先右手に市川市の街歩き案内所がある。ここは江戸時代中頃の享保年間(1716〜36)からこの地に居を構えた石井家が、後に文房具店と「清華堂」という書店を営んでいたところ。平成4年に石井家から市に寄贈された。
 市では家屋と庭園を整備し、平成6年4月ふれあい広場「清華園」としてオープンし、市民の憩いの場となっている。庭園中央に四阿もあり、休んでいくのも良いが、歩き始めたばかり、休憩には少し早いかもしれない。
 なお、建物内では、寄席や講演会などのイベントも行われている。
 

山門
 参道を進むと大きな山門に突き当たる。左右に阿吽形の仁王が迎える仁王門で、朱塗りであるところから総門の黒門に対して赤門とも呼ばれている。大正年間に再建されたもの。扁額の「正中山」は本阿弥光悦の筆によるもので、市指定文化財となっている。
 

 両側に寺院が並ぶ静かな道を行くと明るい境内に出る。

 浄土宗などの邪宗を滅ぼし、正法である法華経を中心にするならば国は安泰すると説いた(立正安国論)ために迫害を受けた日蓮を庇護したのが、千葉頼胤の重臣で日蓮に帰依していた冨木常忍。常忍の居館は現在の奥の院のあるところにあった。鎌倉時代の文応元(1260)年、常忍はにそこに法華堂を建立し日蓮を迎え入れた。これが中山法華経寺の開基とされている。

 同じくこの地の豪族太田金吉も日蓮に帰依し、その居館を本妙寺とした。弘安5(1282)年に日蓮が没した後、常忍は出家して法華堂を法花寺と改め初代住持日常となる。天文14(1545)年、両寺は合体し、当地を中山法華経寺、法花寺を奥の院と称するようになった。  
 


祖師堂(国重文)
 境内ほぼ中央にあるのが、比翼入母屋造りの祖師堂。延宝6(1678)に建てられたもので、日蓮を祀っている。  

 


法華堂(国重文)
 祖師堂奥の一段高いところに建っている。法華経寺の本堂で、本尊釈迦・多宝両尊像を祀っている。
 はじめ、富木常忍が若宮の法華寺に建立したものを、室町時代に移築したといわれている。入母屋造りで、屋根は当初茅葺であったが、江戸時代の改築時に銅板葺きに替えられたという。  

 


五重塔(国重文)
 境内の東隅に五重塔が見える。高さは29.7m。軒の出が少ないためか全体としてほっそりした感じを受ける。
 建てられたのは、江戸時代の元和8年(1622年)。京都の本阿弥光室の発願で 加賀の前田利光が寄進したもの。江戸時代にしては珍しく彩色彫刻がなく、外回りはすべて弁柄朱が塗られている。

 境内にはほかにも、国重文の四脚門、日蓮が自ら彫ったといわれる鬼子母神を安置する鬼子母神堂、毎冬厳しい修行の行われる荒行堂、本院などの建物が点在している。  

 


泣公孫樹
 五重塔の南側にある絵馬堂の横から通りに出て奥の院に向かうとすぐ右手に大きな銀杏の木がある。
 弘安7(1284)年の10月13日、東京池上で行われた日蓮聖人の3回忌の法要の折、日蓮上人から特別に指導者として指名されていた6老僧の一人日頂上人が遅参してしまった。
 日頂上人の父親である富木日常は大いに怒り、宗祖に対する非礼を責めて日頂上人を勘当したという。
 日頂上人は深く反省をし、「此経難持 若暫持者 …」と泣きながら唱えて、7日7夜この銀杏の木の周りを回りながら許しを乞うたが、それでも叶わず、終に何処かへ姿を消したという。
 以来この木を「泣公孫樹」として伝えられている。  

 


奥の院
  泣公孫樹から道なりに進むと左にパン工房のある十字路に着く。標識に従って右に折れるとすぐ先に奥の院がある。山門は左に入ったところ。

 ここは鎌倉時代の中頃、日蓮の熱心な信者で、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍が居館を構えていたところ。常忍は館の中に法華堂を建て、鎌倉を追われた日蓮を迎え入れた。日蓮の没後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とした。
 その後、法華寺は中山にあった本妙寺と合体して法華経寺となり、ここ法華寺は奥の院と称されるようになった。
 境内は鬱蒼とした樹に囲まれて静かな佇まいを見せている。土盛で一段高くなっているところがあるが、かつての館を守っていた土塁の一部である。境内の一角に法華経寺1世の日常上人像が立っている。  

 


若宮八幡神社
 元の角まで戻り東へしばらく進むと若宮八幡神社に突き当たる。狭いながらも大きな木に覆われていて静かなところ。小さなベンチもあり一息入れていきたいところ。  ここは、富木常忍(1216−1299)の住む若宮館の鎮守社として創建したと伝えられている。祭神は品陀別命、大山咋命。現在の社殿は昭和51年に新築されたもの。  

 


明王院
 若宮八幡神社を出て東へ向かう。左に中山競馬場の広い駐車場を見て先の道路を渡り道なりに進むと、明王院がある。境内は明るくすっきりしている。以前ここにあったマンションが取り壊されたばかりのようだ。  明王院は、正式には石動山阿遮羅寺明王密院という新義真言宗のお寺である。本尊は不動明王。長禄2(1458)年の創建という。  

 


熊野神社
 明王院を出て左へ、緩い坂を下っていくと広い通りに出るので、ここを渡って向かい側の道に入る(すぐ右手にある横断歩道で反対側に渡る)。すぐ右に折れ、佐藤医院を左に見て進むとすぐ先左に古作の鎮守熊野神社がある。
 平安時代から鎌倉時代にかけて盛んとなった熊野信仰によって各地に建てられた熊野神社の一つ。熊野三山の首座である熊野本宮大社の祭神熊野家津御子大神(クマノケツミコノオホカミ)素盞鳴尊を勧請して建てられた。
 現在の社殿は、昭和50年に不審火により焼失した後、52年に再建したもの。  

 


 熊野神社を出て、前の道を真直ぐ東方向に進む。はじめ新しい住宅が並ぶが、やがて道の両側に田畑が広がる。前方にJR武蔵野線の高架が見えてくるので、これを潜ってすぐ左に向かう。次の信号で右から来る道路を渡るとそこが行田西小学校。小学校の角を右に入るとすぐに行田公園の入口がある。  

 


行田公園
 ここは、旧日本海軍の無線電信所のあったところ。終戦後米軍により接収されていたが、昭和41年に返還された。昭和46年に電信所が閉鎖され、その内の一部、およそ12ヘクタールが都市公園として整備され、昭和54年に行田公園として開園した。

 公園は、日本庭園と芝生広場の二つのゾーンに分かれていて、今入った西側のゾーンが日本庭園風に造園されている。小さな流れに沿って石や樹木を配して変化を持たせていて、静かな時間を過ごすのによい。  

 


 公園を分断するように大通りが横切っている。西側の日本庭園から東側の芝生広場へは歩道橋を渡る。
 その歩道橋下の壁面に、かつてここに海軍の無線電信所があったことを示す記念碑が埋め込まれている。
 船橋海軍無線電信所は大正4年に開設され、翌年大正天皇とアメリカのウイルソン大統領とがハワイ経由で交信されている。また、良く知られている太平洋戦争開戦を告げる「ニイタカヤマノボレ1208」の電信はここから発せられた。電信所は昭和46年に閉鎖された。  

 


芝生広場
 歩道橋を渡って東側ゾーンに入ると芝生広場が広がる。子供たちが元気に走り回っている。夏は木陰の多い日本庭園で、春秋なら芝生の上でお弁当を広げるのも良い。
 公園では、行田公園フェスティバル、フリーマーケット、各種教室などの催しも適宜開かれている。

 公園東側の出口を出て、熊野神社前の道を東へ進むと15分ほどで東武鉄道野田線の塚田駅に着く。    

 




ホーム トップ