街歩き
水戸街道・松戸宿を歩く
2015.2.11歩く
水戸街道は、江戸と水戸を結ぶ街道で、五街道の一つ奥州街道に対する脇街道として利用されていた。松戸宿は日本橋から数えて三つ目の宿に当たる。 土浦藩・笠間藩・平藩・相馬藩など十数藩が参勤交代の往来の折宿泊・休憩で利用していた。水戸徳川家は江戸常勤であったため参勤交代は行われなかったが、それだけに藩士たちの往来は頻繁に行われ、松戸宿も大いに利用されたことだろう。 また、江戸川を利用した舟運業が盛んで、人や物資の往来で賑わいを見せていたという。 |
JR常磐線松戸駅 上野から常磐線の快速電車で20分。江戸川の鉄橋を渡るとすぐ松戸に着く。 西口を出て駅前ロータリーを渡ると右へ進む(線路沿いの道から1本北の道)。左に西口公園を見るとすぐ先で常磐線に突き当たる。その手前右側角に、みちびき上動と言われている小さなお堂がある。 |
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みちびき上動尊 成田山参詣の道しるべと街道を行く旅人の安全を祈願して、天明5年(1785)舟運業を営んでいた青木源内ら地元の人たちによって建てられた上動明王像。成田山参詣道の入り口にあったところから、みちびき上動尊と言われるようになった。 |
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平潟遊郭跡 みちびき上動尊を少し戻り、西口公園の南を右に折れて西へ向かう。旧水戸街道を渡って松の木通りを行く。坂川を松の木橋で渡り、先に樋古根川を見てその手前を左に入る。 この辺り今は静かな住宅地だが、江戸時代には近くに平潟河岸があり、舟運業が盛んだった。この辺りの宿では、船乗りたちをもてなす女性を置いていたが、それが遊郭へと発展して賑わったという。今、その面影は伺えない |
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常夜灯 通りを先に進むと江戸川の堤に出る。堤上に出ると広々とした江戸川の景観が広がる。 少し下流には水戸街道を往来する旅人を運ぶ渡船場もあり、明治の頃には旅客用外輪船「通運丸《が運航していたという。夜には場所を知らす常夜灯が灯された。写真のものは新しく作られたもの。 |
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江戸川 しばらく下流に向かってのんびりと進む。堤防上にはサイクリングコースも整備されており、多くの人がサイクリング・ジョギング・ウオーキングなどを楽しんでいる。この日は暖かかったからか、早くも水上スキーを楽しむ人もいた。 遠く霞んで、鉄塔と背比べをしているのが東京スカイツリー。 |
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紊屋川岸 江戸時代松戸の主産業は舟運業で、この辺りが中心となっていた。 当時銚子沖で獲れた鮮魚は、舟で利根川を上って布佐(我孫子市)で陸揚げし、そこから鮮魚(なま)街道を馬でここまで運び、ここから再び舟に積んで江戸の町へ送っていたという。夏季は陸上ルートは蒸して痛むからか、舟でそのまま関宿まで上り、そこから江戸川を下っていたようだ。 |
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旧水戸街道 鮮魚街道を東へ進むと旧水戸街道に出る。 通りに面した建物は新しく、特に大きなマンションが立ち並ぶので宿場の雰囲気は得られないが、2・3残る商家風の建物が多少当時を偲ばせる。この建物は、左半分が中古の自転車屋で、右が松戸市観光協会の案内所となっている。 |
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善照寺 この一郭寺院が立ち並ぶ。旧水戸街道を南へ向かうとまず浄土真宗大谷派の西蓮寺。ここでは明治6年に松戸尋常小学校が開校された。 次いで真言宗豊山派の善照寺。元は松戸駅東口の先あたりにあったものが、慶長16年(1611)ここに移転したという。正面にある上動堂は眼病に効くというので、近在の人からは「お上動様《として親しまれ信仰を集めている。 |
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松戸宿本陣跡 街道をさらに南下し、春雨橋で坂川を渡ると松戸宿の中心部となる。宮前町の交差点を右に入ったところが本陣のあったところ。現在はマンションになっているが、その角に案内板が置かれている。 すぐ先に江戸川の堤防が見える。 |
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この本陣は、土浦藩・笠間藩・平藩。相馬藩など十数藩が参勤交代の往来の折宿泊・休憩で利用していた。明治維新後、宿駅制度が廃止され、本陣も廃止された。 最後の将軍徳川慶喜が江戸から水戸へ戻るときに立ち寄ったのが最後の利用と言われてる。 本陣の建物は、慶応3年(1867)に焼失したが、その後再建されたものの、老朽化が激しく平成16年に解体された。 |
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松戸神社 本陣跡から戻り、旧水戸街道を渡った南側に松戸神社がある。寛永3年(1626)の創建と伝えるが、度重なる火災により文書など焼失し、詳しいことは明らかでない。もとは御嶽大権現と称していたが、明治15年に松戸神社と改称された。 ここは、昔日本武尊が東征の際、従者と待ち合わせをした土地で、待つ土地が松戸になったとの話も伝わっている。 本殿裏手に富士塚がある。 |
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松龍寺 松戸神社を出て坂川に沿って南下すると左に松龍寺の山門が見える。 江戸時代以前この辺りを治めていた高木広正の死を弔って、その子正次が元和元年(1615)に創建したという。浄土宗 のお寺で、本尊は阿弥陀三尊。 元は今の戸定邸の地に建てられたものを、慶安3年(1650)当地に移建された。 天明4年(1784)市内の籾殻塚稲荷の境内の籾殻から現れたという聖観世音菩薩を祀る観音堂が山門を入ったすぐ左にある。 |
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徳川慶喜と写真 最後の将軍慶喜は、上野でしばらく謹慎後水戸に帰っているが、その後弟昭武の別邸戸定邸を訪れ、二人で趣味とした写真撮影を楽しんだという。これは撮影の場所に立てられた案内板で、昭武が撮影したもの。 激動の幕末を生き、大政奉還という大仕事を終えた最後の将軍はどのような思いでファインダーを覗いていたのだろうか。帽子を冠りカメラを構える後ろ姿からは安堵の雰囲気がうかがえる。 |
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坂川 江戸時代、江戸川流域の湿地帯を開拓するための放水路として掘られたのが坂川。しかし、低湿地のためしばしば水が逆流したことから逆川とも呼ばれていたらしい。 上の写真と同じ場所だが、ずいぶん川幅が狭くなっているように見える。 |
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レンガ橋 坂川はここで90度右に折れる。その先に煉瓦造りの橋が見える。上を渡るのが旧水戸街道。これは、江戸川から坂川への逆流を防止のために明治37年に建設された樋門で、千葉県内に現存する煉瓦造の橋としては最古のものという。 その形からめがね橋とも呼ばれているが、三つになっていますからね。三つ目の小僧用でしょうか。 |
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浅間神社・極相林 めがね橋から道を左へ。しばらく行って常磐線を陸橋で渡るとすぐ先で国道6号線(今の水戸街道)に出会う。その左手角に標高28mのこんもりとした小山がある。浅間神社の森で、頂上に向けて長い石段が伸びている。 周囲は鬱蒼とした樹木に覆われている。ヤブニッケイ、タブノキ、ツバキ、ムクノキ等の原生林で、このように日照・気温・湿度等の自然環境に適応する木だけが残っているのを極相林といい、ここは千葉県の天然記念物として指定されている。 |
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浅間神社 1合目から左右にある合目石に励まされながら登りついた頂上に浅間神社がある。 創建は正保4年(1647)6月1日と伝え、祭神として木花咲耶姫命、源義家朝臣命が祀られている。 境内には富士塚がある。鬱蒼とした樹林で今は見えないが、かつてはここから富士山が望まれたのだろう。 浅間神社を出て右へ神社に沿って進む。途中左に常磐線を見るようになり、車両基地への引き込み線を跨線橋で渡ると右手に戸定ヶ丘歴史公園があらわれる。 |
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戸定邸 ここは、もとこの辺りを治めた高木氏の松戸城があったところで、明治17年(1884)に水戸徳川家の昭武が別荘を建て、社交場として利用していた。兄である慶喜も訪れていたという。 昭和26年に松戸市に寄贈され復元工事や庭園の整備を経て平成3年戸定が丘歴史公園・戸定邸・戸定歴史館として公開されるようになった。 この日は遅くなったのと、見たかった庭園の公開は毎月10日、20日と決められているので、別の機会に再訪することとした。 |
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戸定邸から松戸駅へ向かう。途中右へ千葉地方検察庁に通じる坂道に入ると、その先に松戸中央公園がある。 |
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松戸中央公園 明治38年から大正8年までこの丘の上に競馬場があったが、その後「中山競馬場《に移転。その跡地は陸軍工兵学校、戦後千葉大学工学部を経て、今は市民の憩いの場となっている。公園入口に建っている煉瓦造りの門柱は陸軍工兵学校当時のもの。 公園を横切って反対側からイトーヨーカドーの店内を経て松戸駅東口に出られる。 |