街歩き
県都に千葉氏ゆかりの地を訪ねる
2013.12.15歩く
1126年に移ってきてから500年近く千葉介としてこの地を守護し、千葉市の礎を築いた千葉氏。それだけに千葉氏ゆかりの城址や社寺・史跡が多い。近代都市の千葉県都に、古き千葉氏ゆかりの地を訪ね歩いた。 |
千葉駅前通り 東京駅から千葉までは総武線の快速1本で40分ほどだが、同じ県内に居りながら我が家からは2度3度と乗り換えて、1時間あまり掛かってしまう。 そんなこともあってか、日頃はつい東京方面に足が向いてしまい、千葉県民になって久しいが、千葉駅前に降り立ったのは今回が初めてだった。 |
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千葉中央公園 駅前大通を東へ向う。 この通り、中央公園プロムナードといって、通りの両側の花壇には、地元の人々の手によっておよそ80種ほどの草花が植えられており、季節ごとに市民の目を楽しませている。 道の突き当たり、モノレールの下の道路を渡ったところに中央公園がある。ビル街の中、小さな公園だが憩う人が多いのかいろんなイベントも開かれているようだ。 |
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万葉歌碑 公園の一角に立派な万葉歌碑が建てられている。 平成3年3月に、千葉エコーライオンズクラブが創立25周年を記念して建てたもので、高さ160cm、横100cmの碑面には巻20−4387の歌が刻まれていた。 千葉の野の 児手柏乃 ほゝまれど あやにかなしミ 置きて高来ぬ 作者は天平勝宝7年(755)の防人である千葉郡の大田部足人 歌意は、千葉の野の児手柏のように若くてむしょうにかわいいが、なんとも痛々しいので、そのままにして遠くやってきた。 千葉の字が始めて現れたのがこの万葉集だという。 |
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千葉神社 中央公園の北側の道を東へ向うとすぐに通町公園がある。もと大日寺のあったところで、その北側に千葉神社がある。 大治元年(1126)に千葉常胤が居館を千葉に移したときに建てられ、妙見菩薩を祀った金剛授寺が前身とされている。いわゆる神仏混淆で、千葉氏一族の守護神とされてきたが、明治の神仏分離令により千葉神社になったという。 祭神は、北辰妙見尊星王(天之御中主大神)、通称妙見様と呼ばれている神で、人間の運命とすべての方位を守護するといわれている。 |
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楼門 千葉神社の神門はちょっと変わっている。 中央にある福徳殿、その上階にある開運殿、東側にある日天楼、西側にある月天楼の四つの社殿からなる尊王殿と楼門が一つになったもので、他では見られないものである。 もともとあった山門が昭和20年の空襲で焼失したのを、神社開創1000年記念事業の一つとして建てられたもので、平成10年に完成した。 |
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中央区役所・市立美術館 千葉神社から東側の国道126号線を南に向う。 やがて右手に立派な建物が見えてくるが、これが中央区役所と千葉市美術館を併設した建物。 ここは旧川崎銀行千葉支店のあったところで、昭和2年(1927)に建てられた建物が改修されて保存されている。1・2階内部はさや堂ホールといい、8本の円柱が並ぶネオルネサンス様式のホールとなっていて、コンサートなどに利用されている。 平成6年竣工の新しい建物は、この古い建物を包み込むような格好で建てられている。 7階から11階部分が美術館で、7・8階の展示室の他、市民ギャラリー・美術図書室・ミュージアムショップ・レストランなどの施設が整っている。 |
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旧川崎銀行千葉支店 建物はネオ・ルネッサンス様式の歴史的建造物で、鞘堂方式で新しい建物に包まれるようにして保存され、千葉市指定有形文化財として指定されている。 |
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千葉教会 国道126号線をさらに南へ進むと大和橋で都川を渡る。しばらく行くと県警本部や千葉県庁のある官庁街に差し掛かる。その手前の信号のあるところを左へ入ると猪鼻公園だが、それは後にして信号を渡って少し行くと左に千葉教会がある。 日本キリスト教団の教会堂は、明治28年(1895)ドイツ人技師リヒャルト・ゼールにより建てられたもので、明治時代の建築様式を良く残しているとして、千葉県の有形文化財に指定されている。 |
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胤重寺 少し戻って先ほどの信号機のあるところを右へ入る。そのまま坂を上がって行くと猪鼻公園。一つ目の通りを右に入るとすぐ左、千葉県立中央図書館の手前にあるのが浄土宗のお寺胤重寺。 境内墓地には千葉常胤の三男武石胤盛の子胤重の墓がある。また、江戸末期の柔術家戸塚彦介英俊、英美親子の墓もあり県の史跡に指定されている。 境内に入ったすぐ右手、小さな祠の中に地蔵像が祀られていた。イボ取り地蔵といい、塩を奉納すると効験があるという。 先ほどの道をさらに上がって行くと台地上に立派な天守閣が聳えている。 |
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千葉市立郷土博物館 ここは、平安末期の大治元年(1126)に千葉常重が本拠を上総国大椎から移し、城館を構えたところ。その後源頼朝の挙兵に参上、源平合戦・奥州合戦で活躍し、上総・下総で広大な所領を得て栄える。後に北条氏の勢力拡大によりその傘下に入るが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が敗れ、千葉氏も滅亡した。 ここは猪鼻城の跡と伝えられているが、当時を含めてここに天守閣が建てられたことはない。当時は木造の城主居館といくつかの櫓のある城館であった。それも最近では当所ではなく、今の裁判所のあった辺りだろうといわれている。 |
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博物館館内 この4層5階の模擬天守閣は、昭和42年に小田原城を模して建てられたもので、千葉市の郷土博物館となっている。 館内には1126年から1590年までのおよそ470年間に亘って下総国を中心に活躍した千葉氏に関する資料を中心に展示・紹介している。 4階は千葉市の明治から昭和にかけての歩みを紹介している。 5階は展望室。東京湾の臨海工業地帯を見下ろせるが、金網が邪魔になって写真は撮れない。入館料60円(小中学生30円)は申し訳ない思いがする。 |
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千葉大学医学部 博物館を出て、来た方とは反対に左に廻って北側の信号のある下の道へ下ると正面が千葉大学の医学部。ここを右(東)へ進む。 左に千葉大学医学部の建物、右に住宅街を見ながらしばらく進むと右手道路沿いに大木がこんもりと繁る小さな塚が二つ続く。案内板には「七天王塚」とある。 |
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七天王塚 この七天王塚、側の解説板によると、千葉氏が一族の繁栄を願って作り、牛頭天王を祀ったと伝えている。道路脇に2基と千葉大医学部校内に5基の計7基あり、千葉氏の崇拝する北斗七星の形に配置されているという。 一説には、千葉氏の7人の兄弟を葬った墓とか、平将門の「七騎武者」の墓とも伝えられている。 |
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千葉県立中央博物館 道幅が広い公園北通りに出ると右手に青葉の森公園が広がる。元の農林省畜産試験場の跡地を利用して作られた公園で、54haの園内には様々な施設が設けられている。 少し先にある入口を入ると、まず出会うのが公園の中心的な施設県立中央博物館。平成元年にオープンした施設で、「房総の自然と人間」をテーマとして房総の自然誌、房総の歴史、自然と人間のかかわりについての常設展示がされている他、講座や観察会なども行われている。 隣接する生態園では季節の野鳥観察も出来、ゆっくりしたいところだ。 |
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彫刻の広場 博物館を出て南へ下ると生態園、芸術文化ホールとつづき、その先に彫刻の広場があり、著名な彫刻家の作品が20体ほど展示されている。 ここを左に上がると西洋庭園、その先に大広場、体験学習が出来るつくしんぼの家、さらには陸上競技場、野球場ととにかく広い。 |
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荒久古墳 公園の南西隅の小高くなったところに荒久古墳がある。一辺約9mの方墳だが、これは削られたためでもとは一辺20mあったらしい。 明治24年に発掘調査が行われているが、その時の出土品は散逸したため詳しいことは分からなかったが、その後の調査で横穴式の石室を持つ方墳と分かり、出土品、形式から7世紀後半の墓と推定されている。 先ほどの七天王塚近くでは前方後円墳が2基見つかっており、七天王塚も古墳ではとの見方もあり、古墳群があったようだ。 |
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千葉寺(せんようじ) 彫刻広場西口を出て左(南)へ行くと、右手に千葉市ハーモニープラザがあり、ここを過ぎると大網街道にぶつかる。右に折れ、大網街道に沿ってしばらく進むと右手に千葉寺がある。 千葉寺は和銅2年(709)に行基が開創したと伝える真言宗豊山派の古刹。本尊は十一面観音菩薩像。千葉市で最も古いお寺だそうだ。永暦元年(1160)に落雷により焼失したが、建久3年(1192)に千葉常胤により再建され、以来千葉氏の保護を受けてきたという。 ここは、坂東三十三カ所観音霊場の29番札所でもある。 |
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大公孫樹 本堂の前にあるイチョウ。樹高30m、目通り8mあるという大きなもので、行基が当寺開創時に植えたものと伝えている。だとすると、樹齢1300年の古木となる。千葉県の天然記念物に指定されている。 地上に近い枝からは乳根が垂れているが、これを煎じて飲むと乳が出るようになるという。 ここには「千葉笑い」という行事があったという。これは大晦日の晩に住民が誰だか分からないように覆面をして集まり、代官の悪口を言ったり罵ったりして大笑いをしたという行事で、明治の初め頃まで行われていたらしい。 |
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京成千原線千葉寺駅 仁王門を出てすぐ右、道が大きく右へカーブするところの交差点を左(南)へ入り、住宅地の中を行く。やがて前方に京成電鉄の高架線が見えてくるので、その手前を左に入れば千葉寺駅。 |