街歩き
浅草新寺町を歩く
2005.04.05歩く
明暦3年(1657年)の大火(振袖火事ともいう)により江戸市中の寺院の多くが灰燼に帰した。その後上野から浅草にかけての一帯に多くの寺院が移って来て新寺町が出来た。これらの寺院の中には歴史上著名な人物の墓が数多く見られる。今回はそれらのお墓をめぐり歴史の勉強をした。 |
徒歩1時間30分 |
スタートは上野駅。 歩道橋を渡って浅草通りを進むと右手に赤い鳥居があり、その先に下谷神社が見える。 |
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下谷神社 祭神は大年神、日本武尊の2神。 創建は古く天平2年(730年)上野忍ヶ岡に建てられたが、その後寛永寺建立のため移転したり、震災に遭ったりして何度か建て替えられた。現在の社殿は昭和9年に完成したもの。拝殿天井には横山大観の「龍」の絵がある。 かっては下谷稲荷社と称していたところから、このあたり稲荷町の地名があったが今は東上野。地下鉄の駅名に「稲荷町」が残る。 |
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源空寺墓地 再び浅草通りを進む。松が谷1丁目の交差点を北へ。かっぱ橋本通りの少し手前左に源空寺がある。 ここには歌舞伎で知られる江戸初期の町奴幡随院長兵衛の墓。幕府の命により奥州や蝦夷地を測量し略図を作成、更に日本全図を作成中に死去した江戸後期の測量家伊能忠敬の墓。その伊能に天文学を教えた高橋至時の墓が並んでいる。 |
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3墓の向い側に谷文晁の墓がある。 谷文晁は江戸後期の南画家。最初狩野派に学ぶが、中国や西洋画なども研究し、独自の画風を作り出した。人物、山水、花鳥、特に水墨山水を得意とした。父は田安家の家臣谷麓谷。そんな関係で後田安家から白河松平家の養子に入った松平定信と面識があり、乞われて近習となって諸国を随行しながら絵を描いた。 文化9年に刊行された「日本名山図会」は全国の名山90を選んで上梓したもの。(最初は88山で文化元年の刊行)深田百名山の大先輩といったところでしょうか。 |
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源空寺 本堂は墓地とは道路一つ隔てた北側にある。浄土宗のお寺。 もとは湯島にあったが、明暦3年の大火の後この地に移ってきたもの。 |
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曹源寺(かっぱ寺) 源空寺を元の通りへ出て左へ、松ヶ谷2丁目の交差点を右折して河童橋本通りを行くと左にある。 曹洞宗のお寺で、かっぱ寺として知られている。 このあたり度々出水の被害を受けたので、江戸文化年間の頃雨合羽商合羽屋喜八(通称合羽川太郎)が私財を投じて治水工事を行なった。このとき河童が工事を助けた。その後この河童を見たものは運が開けるといわれ、合羽と河童をここに祀るようになった。その河童大明神が境内にある。 |
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梅田雲浜の墓 曹源寺を出て河童橋の方へ行くと左手に海禅寺がある。ここには梅田雲浜の墓がある。雲浜は号。本名定明。若狭小浜藩の藩士であったが、幕府批判の廉で藩を追放される。その後藤田東吾、佐久間象山、高杉晋作らと交わり、開国論者井伊大老排斥も企てたが、安政の大獄で捕らえられ獄死した。 |
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伊豆長八の墓 海禅寺を出て先に進むと河童橋。交差する通りがかっぱ橋道具街通。ここを南に200m余り行き右に入ったところに正定寺があり伊豆長八の墓がある。伊豆長八は鏝絵の名手といわれた。鏝絵とは漆喰を塗った上に、鏝で絵を書くもの。長八は伊豆松崎で生まれ、江戸の左官棟梁源太郎の弟子となり修行するかたわら狩野派の画法を学ぶ。伊豆松崎には長八美術館があり、作品の数々を見ることが出来る。 |
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かっぱ橋道具街通 ここは元合羽川太郎が治水工事をした新堀川のあったところで河童橋はそのときの名残。新堀川は墨田川に注いでいたがいまは新堀通りとなっている。このあたり一帯厨房の設備・道具や食器を売る店が軒を連ね、料理のプロから個人の客まで、いつも賑わっている。 |
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葛飾北斎の墓 正定寺から河童橋通りを再び浅草通りへ出て上野寄りに少し戻り、松ヶ谷1丁目の交差点を南に渡り少し行くと誓教寺。ここの墓地に「富岳三十六景」などで知られる浮世絵師葛飾北斎の墓がある。 |
まよひ子のしるべ 誓教寺の右手の通りを入って先、道路を渡った突き当りが永見寺。本堂脇にこんなのがあった。 正面に「まよひ子のしるべ」、右側に「たづぬる方」、左側に「至らする方」と彫られている。迷子というより尋ね人の掲示板。消息を知りたい人、情報の知っている人がそれぞれ上部の四角の枠内に書いて張っておいたのだろうか。いつの頃から作られたのかは知らないが、当時の世相の一端が伺われるような気がする。 |
本法寺石塀 永見寺の左の道を入り突き当たり道路を渡ったところにあり、良く目に付く。落語家の名前を刻んだブロックで造られている。「これ全部はなし家だよ」「へー」? 境内には戦時中戦意高揚を削ぐと禁止された艶笑落語を弔うために建てられたという「はなし塚」がある。 浅草通りを渡って東京本願寺へ向かうと右手に徳本寺がある。 |
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徳本寺 浄土真宗のお寺。明応元年(1492年)三河国に創建されたが、徳川家康江戸入城の翌年檀徒本多正信の願いで神田に移建され、明暦3年に現在地に移る。 ここには佐野善左衛門の墓がある。10代将軍家冶の頃老中筆頭田沼意次とその子意知が政権を握り専横を極め、このため世は乱れ、庶民は困窮していた。見かねた佐野善左衛門が城中で意知に刃傷し、切腹を命じられたが、その後悪政も幕を下ろし落ち着いたため善左衛門は「世直し大明神」と庶民からあがめられた。 |
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浅草寺 最後は浅草の観音さまにお参りして終わる。仲見世はいつも賑わっている。ここにある「助六」の人形は精巧に出来ていて可愛いが、やはり花より何とか。今日は人形ならぬ人形焼をお土産に買って帰る。 |