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モモ   桃 



春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子
             19ー4139 大伴家持

 モモ バラ科 スモモ属

 桃は中国原産の木ですが、わが国でも縄文遺跡から桃の種子が出土しており、古くから野生のものがあったと考えられています。

 伊邪那美命が亡くなった時、伊邪那岐命は黄泉の国へ伊邪那美命を連れ戻しに行きます。その時、約束を破って覗き見をした伊邪那美命のあまりにも変わり果てた醜い姿に驚き逃げ帰ります。怒った伊邪那美命は黄泉の国の軍隊に後を追わせます。ようやく黄泉比良坂までたどり着いた時、軍隊に追いつかれますが、そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけますと、桃の持つ魔除けの力を受けて、軍隊は退散してしまうという話が古事記にあります。

 このように、桃は古くから知られているにしては、万葉集に桃を詠った歌は6首しかありません。その内花を詠ったのが2首、他は木や実を詠ったものです。この頃は花より実の方に関心が強かったのでしょうか。

 4139の歌意は、春の園、その園一面に紅に照り輝いている桃の花。その桃の木の下まで照り輝く道に佇む娘子よ。
 「にほふ」には、かおるの他に、美しく染まる、美しく照り輝く、栄えるなどの意味がありますが(三省堂古語辞典)、この歌では照り輝く意味で使われています。

 家持は746年越中の守として国府のあった今の高岡市に単身赴任しています。それから4年、そろそろ京のことや京に残してきた妻のことを懐かしく思うようになってきた頃です。

 この歌の作られたのは天平勝宝2(750)年3月1日です。太陽暦では4月11日頃。その頃高岡では桃の花は咲いていたでしょうか。京ではちょうど花の盛り。家持は京に咲く桃の花と、そこに妻である大伴坂上大嬢の立つ姿を思い浮かべてこの歌を詠ったのでしょうか。

 この歌を読むと正倉院に収められた鳥毛立女?風の樹下美人図を思いだします。歌の詠まれた翌年に描かれたもので、樹は桃ではありませんが。中国唐代には樹下美人を題材とした絵が盛んに描かれたようですから、家持はそのことは知っていたのでしょう。

    その他の桃の歌

向つ峰に 立てる桃の木 成らめやと 人そささやく 汝が心ゆめ
                7−1356 作者未詳

はしきやし 我が家の毛桃 本繁み 花のみ咲きて 成らざらめやも
                7−1358 作者未詳

我がやどの 毛桃の下に 月夜さし 下心よし うたてこのころ
               10−1889 作者未詳

大和の 室生の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずは止まじ
               11−2834 作者未詳

桃の花 紅色に にほひたる (長歌)                19ー4192 大伴家持

他に 5-853(序) 17-3967(序)

 
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