手児奈霊堂



古に ありけむ人の 倭文機の 帯解き替へて 廬屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つきを こことは聞けど 真木の葉や 茂り たるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らゆましじ
                        3−431 山部宿禰赤人

我も見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つき処
                        3−432 山部宿禰赤人

勝鹿の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ
                        3−433 山部宿禰赤人


 JR市川駅から大門通りを北へ、真間の継橋を過ぎてすぐ、正面に弘法寺の石段を見て 一つ手前の道を右手に入ると手児奈霊堂がある。
 多くの男性からの求婚に悩み、身を投げたという伝説の美女手児名の奥津城があった ところ。 手児奈霊堂は、天平9年(737)、立ち寄った行基菩薩が手児名の霊を弔うため に建てたと伝える。

   山部赤人は、手児名の話を聞き、その墓所を人に聞いて訪ねてきたが、木が茂り松の 根が伸びていた。その場所を私は見た、そして人にもこのことを伝えて行こうと詠ってい る。赤人の生没年は分からないが、聖武天皇の行幸に従って多くの歌を作っているので、 行基とはほぼ同年代と思われる。

 これから見ると、赤人が訪ねたときにはまだ霊堂は無かったようだから、もしかしたら行 基が、赤人の話を聞いて立ち寄ったのかもしれない。

 当時は、この辺りが東京湾の波打ち際だったという。  



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