街歩き


西廻り航路で栄えた港町酒田を歩く


2007.5.29歩く

コ ー ス  徒歩1時間50分
JR酒田駅(10分)清亀園(5分)酒田市立資料館(5分)本間家旧本邸(10分)山居倉庫(15分)旧鐙屋(15分)海洋センター(10分)日和山公園(8)相馬楼(7分)浄福寺唐門(20分)本間美術館(5分)JR酒田駅

江戸時代、西廻り航路が開設されてから酒田はその拠点として繁栄し、多くの廻船問屋や米問屋が軒を連ねた。日本一の大地主と言われた本間家もここ酒田の豪商。財の大きさは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれるほど。その豊富な財で、一商人の枠を超えてさまざまな社会事業や救済活動も行い、藩の財政も支えたという。
そうした豪商達が築いた湊町酒田の文化や歴史は、度々の地震や火災に見舞われながらも、今なおそこここに息づいている。そんな湊町を訪ねてみた。徒歩で2時間弱だが、見学時間を入れると1日では忙しかった。



清亀園
JR酒田駅を出て正面の通りを行き、大通りに出る1本手前の信号を左折する。東急インの前の道を南下し、左に上日枝神社を見てすぐ先の信号を左に折れるとすぐに清亀園あった。
清亀園は明治24年当地方の大地主伊藤四郎衛門家の別邸として築造されたが、昭和54年に酒田市が取得、今は市民の会合やお茶の教室などに利用されている。

庭園
庭園は池を中心にして250本の樹木のほか、大小の庭石、4体の李朝時代の石仏人物像、9基の石灯篭、東屋が見事に配置されている。さらにウメ、ツツジ、アジサイなどの花木が季節に応じて彩を添えている。
作庭当初は庭園の中に田圃もあったというから相当広大なものだったようだ。

酒田市立資料館
清亀園を先ほどの信号まで戻り、さらに南に進んで次の信号を右折、大通りに出る少し手前にあった。開館前に着いたので10分ほど待って入った。
酒田の古代から近代までの歴史や民俗資料のほか、日本海交易の港町として栄えた酒田の海運文化を示す資料などを展示する。昭和53年4月1日にオープンしたもので、酒田を歩く前に見ておきたいところ。

本間家旧本邸
資料館から大通りに出て左へ。次の信号のある本町通りを右へしばらく行ったところにある。
明和5年(1768年)千石船による商いで財を成した本間家が、幕府巡検使の本陣宿として建てたもの。表側が2千石旗本の格式を備えた長屋門構えの武家屋敷造り。その奥が商家造りとなって、こちらを本間家の住まいとしていた。このように武家屋敷造りと商家造りを一体とした建物は他では見ない珍しいもの。

山居倉庫
元の大通りに出て南に進み、酒田商業高校を左に見ながら新井田川を新内橋で渡るとすぐ右に倉庫が並んでいた。明治26年(1893年)酒田米穀取引所の倉庫として、舟への積み下ろしに便利な最上川と新井田川に挟まれた、通称山居島に建てられたもの。
倉庫は今もJA庄内の倉庫として使用されており、船に替わってトラックが荷の積み下ろしをしていた。

倉庫の設計は独創的で、俵の熱を放散し、屋根からの熱を防ぐ二重屋根の構造で建てられている。夏の西日と強風を防ぐために植えられたケヤキ並木とともに、風情ある景観を見せている。
倉庫の一郭を利用して、庄内米歴史資料館や食事処、物販コーナーなどの施設を併設する。

新井田川に架かる山居橋は歩行者専用の橋。江戸時代にタイムスリップしたようだ。




橋を渡って左折し、次の信号を右へ進み、市役所のところで本町通を渡ると旧鐙屋がある。
2003.5.4
旧鐙屋
酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たすとともに、酒田三十六人衆として町政にも重要な役割を果たした。本姓は池田だったが、領主最上義光から鐙屋の屋号を与えられ、鐙屋惣座衛門と称した。
現在の建物は弘化2年(1845年)の甘鯛火事の直後に再建されたもの。通り庭(土間)に面して10間余の部屋が並び、杉皮葺の屋根に石を置く典型的な町屋造り。国指定史跡になっている。

山形県酒田海洋センター
元の新井田川沿いの道に戻り、右へ海洋センターへ行ってみた。酒田港に隣接する海の博物館で、北前船の模型や、酒田港の今昔を写真など紹介している。
隣にある海鮮市場では、水揚げされたばかりの魚介類が豊富に並べられていた。
また、ここからは日本海に浮かぶ飛島へ定期船が出ている。飛島はウミネコの繁殖地として知られるほか、多くの渡り鳥が羽を休めていく島で、渡りの時期には多くのバーダーで賑わう。

海鮮どんや とびしま
海鮮市場の2階にある食堂。ちょうどお昼になったので、お腹を満たして午後に備えることにした。写真のランチ、本日限定30食の30食目。左端の海鮮丼だけでも十分なのに、刺身盛り合わせ、そばのあんかけなど全12品でなんと1260円。とにかく安い。残念ながら食べ切れなかった。

旧酒田の灯台
食事を終え、通りに出て左へ進むと前方に白い灯台が見えてきた。日和山公園に建つ木造六角の洋式灯台で、明治28年(1895年)10月20日に最上川左岸河口に建てられ、その後対岸に移ったが、昭和33年(1958年)北港高砂に新しい灯台が完成するとともにその役割を終え、この地に移築保存されたものである。 高さ12.83メートル。当初の光源は石油ランプであったそうだ
県の文化財に指定されている。

日和山公園
港と酒田の市街を見下ろす高台にある公園で、夕日の美しい公園として知られ、また桜の名所でもある。
園内にある池を日本海に見立て、1/2に縮小した千石船の模型を浮かべてあった。また池畔の植え込みは北海道から瀬戸内海までの日本列島をかたどり、西廻り航路の拠点となった酒田らしい造りだ。

旧白崎医院
大正8年(1919年)に建てられた酒田市内唯一の大正期の木造洋風建築で、昭和53年まで本町通に面したところにあったが、昭和51年の酒田大火の後の火災復興土地区画整理のために解体され、園地内に移築保存されることになった。
2階が住居、1階が外科専門の医院として建てられているが、このような例は珍しく、建築史的にも意義があるとして酒田市の有形文化財として指定されている。

相馬楼
白崎医院から下日枝神社の随身門、海向寺を経て舞娘坂のゆるい坂を下ると相馬楼があった。江戸時代からの料亭相馬屋を修復・公開しているもので、当時酒田の豪商たちが商談が成立するとここでにぎやかに酒宴を催したという。
木造母屋は明治27年の庄内大地震の大火で焼失した直後に建てられたもの。2階大広間では酒田舞姫の踊りと舞姫弁当(予約制)を楽しむことが出来る。

浄福寺唐門
相馬楼を出て寺町通を行くと左手にある。
浄福寺の唐門で、寛政12年(1800年)本間家3代光丘が菩提寺のために、京・近江から大工を呼び、京都東本願寺大谷宗祖廟を模して造らせ寄進したもの。入母屋唐破風造りの荘厳な門で、度重なる地震にも耐えられる造りとなっている。柱の下部が曲がっているのが特徴。酒田市の文化財に指定されている。

本間美術館本館
寺町通りから大通りへ出て北へ、今日最後の目的地本間美術館に向かった。
ここは、本間家4代光道が文化10年(1813年)、庄内藩主酒井候を領内巡視の折迎えるために建てた本間家の別荘。昭和22年(1947年)、本間美術館として開館。京風の精緻な木造建築の本館「清遠閣」では、庄内藩はじめ東北諸藩からの拝領品など数々の品を展示している。 鳥海山を借景にした庭園「鶴舞園」には北前船で運ばれた全国の銘石が配置されている。

本間美術館新館
昭和43年、本間美術館開館20周年を記念して建てられた。近世の古美術から現代に至る数々の舘所蔵の美術品を企画展示している。
ここを出ると酒田駅まですぐだった。


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