街歩き


築地から浅草へ 隅田川テラスを歩く


2010.10.11歩く

コ ー ス  徒歩約2時間45分
東京メトロ築地駅(1分)築地本願寺(3分)築地場外市場(5分)波除神社(5分)勝鬨橋(25分)南高橋(18分)豊海橋(20分)平賀源内電気実験之地(10分)芭蕉庵史跡庭園(3分)芭蕉記念館(20分)回向院(10分)旧安田庭園(35分)浅草駅

 築地から浅草まで良く整備された隅田川テラスを歩いた。10月とはいえ、今年の夏は暑く長かったが、水辺を行くコースは爽やかだった。
   水辺に立ってまず驚かされるのが超高層マンション群。が、あまり圧迫感を感じないのは、間を隅田川が広くゆったりと流れているせいだろうか。  コース上には、近代的な建物の間に数多くの江戸の史跡が混在し、1日では見尽くせないと思った。




東京メトロ日比谷線築地駅
 地上に出ると新大橋通り。この左隣が築地本願寺。

築地本願寺
 浄土真宗のお寺で、京都の西本願寺の別院。
 はじめ、元和3年(1657年)浅草に建てられたが、明暦の大火で焼失。その後当地に再建されたものの関東大震災で再び焼失。現在のインドの建築様式の本堂は昭和9年に建てられたもの。

 築地本願寺の前を行き、晴海通りを越した先が築地卸市場。最初の通りを左に折れる。このあたりが場外市場で、鮮魚から干物、佃煮など多くの店が軒を連ねる。  また、新鮮なネタを使った寿司や海鮮丼の他、カレー、ラーメン店などもあり、お昼近ければここで腹拵えをしていくのも良い。

波除稲荷神社
 買物客などで賑わう通りを先に進むと突き当たりに波除稲荷神社がある。
 築地埋め立てのとき、波が荒くてなかなか堤防が築けなかったが、たまたま海中から発見された稲荷明神を祀ったところ、波が収まり工事も無事完了したという。以来、厄除け、航海安全の神として信仰を集めているという。  

勝鬨橋
 神社の前を左に行くと晴海通りに出るので、これを右へ行くと隅田川に架かる勝鬨橋。橋は昭和15年に完成した。当初は大型船が航行するとき橋の中央が跳ね上がって通れるようになっていたが、橋上の交通量が増えたのと、大型船の航行が無くなったため、昭和45年を最後に開かれなくなった。
 橋の袂に「かちどき橋の資料館」があり、橋の開閉されていた頃の様子が、映像やパネルで見られる。

隅田川テラス
 勝鬨橋の手前から左へ隅田川テラスに下りる。ここから浅草までの両岸が、昭和55年から整備され、水辺の気持ちの良い散歩が楽しめるようになった。
 水面ではカモメなどの水鳥が遊び、水上バスが絶えず往来している。

佃大橋
 勝鬨橋の上流にあるのが佃大橋。佃大橋は明石町と佃島に架かる橋で、東京オリンピックの行われた昭和39年に完成した橋。それまでの佃島は文字通りの島で、渡船で渡っていた。最初は手漕ぎ舟だったと言い、のんびりした風情だったのであろうが、今のリバーシティ21の高層マンション群の光景からは想像もできない。

南高橋
 佃大橋を潜りしばらくで亀島川に架かる南高橋を渡る。これは昭和7年に竣工した橋だが、元は明治37年に造られた両国橋の三連トラスの中央部分。両国橋が関東大震災で損害を受けたため、その中央部分を補強し、橋幅を狭くして架設したもので、鋼鉄トラス橋としては都内で2番目、全国でも6番目に古く、近代土木建築としても貴重なものとして区の有形文化財に指定されている。

江戸湊の碑
 南高橋を渡り、再びテラスに下りたところに黄金の錨が建てられている。
 慶長年間に江戸幕府がこの地に江戸湊を築港した。以来、江戸の水運の中心地となり、各方面からの物資がここに集中し、江戸の経済を支えていた。昭和11年まで、伊豆七島など各地への航路の出発点として賑わったという。

永代橋とスカイツリー
 さらに上流に進むと永代橋。初めに架けられたのは元禄11年(1698年)。深川の渡しに代わって架けられたが、維持管理が出来なくなり、廃橋の憂目にあったものを地元の請願により、有料橋を条件に存続されたという。今の橋は大正15年に竣工したもの。
 遠くに見えるスカイツリーは、この時点で488m。

日本橋川
 永代橋を過ぎると日本橋川が合流する。これを豊海橋で渡る。
 日本橋川沿いには、江戸時代に築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸があり、江戸の物流の中心となっていた。
 川岸には沢山の船が係留されていた。  

平賀源内電気実験の地
 次の清洲橋で隅田川を対岸(左岸)に渡る。東詰の信号を右に入るとすぐに読売江東ビルがあり、道路に面したところに標識がある。
 享保13年(1728年)高松藩志度蔵番のことして生まれた源内は、江戸へ出てから本草学を学んだり、陶芸や戯作をするなど多方面に才能を発揮した。安政5年(1776年)借り住まいをしていたこの地で長崎から持ち帰ったエレキテルを修理・復元して公開実験を行ったことで知られている。  

芭蕉庵史跡展望庭園
 元の道を戻り、清洲橋通りを横断して先に進み、萬年橋で小名木川を渡る。渡ったところをすぐ左へ行くと隅田川の合流地点の角にある。
 寛永21年(1644年)伊賀上野に生まれた松尾芭蕉は、31歳の頃俳諧師として立つため江戸に出た。38歳のときに日本橋からここに移り、新たに蕉風俳諧を打ち立て、「野ざらし紀行」「おくの細道」などの名紀行や、「古池や蛙飛び込む水の音」などの名句を残した。現在芭蕉庵があったと思われる場所を整備して記念庭園としている。

江東区芭蕉記念館
 記念庭園から萬年橋通りを北へ200mほど行ったところにある。
 昭和56年、芭蕉ゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するために江東区が開館したもの。
 展示室では、元禄4年(1691年)正月3日付の句空宛ての芭蕉書簡、与謝蕪村筆の芭蕉坐像図ほか俳諧資料を随時展示している。図書室では俳文学の書籍類の閲覧も出来る。

回向院
 芭蕉記念館の裏口を出ると再び隅田川沿いの道に出る。さらに上流に向い、左に見える首都高両国JCの手前あたりで萬年橋通りに出る。つづいて国技館通りを行き、京葉道路に出た右手に回向院がある。
 明暦3年(1657年)の振袖火事での10万人を越す死者を埋葬し、回向したのが回向院の始まり。諸宗山無縁寺回向院というように、無縁仏を宗派に関係なく埋葬している。

ねずみ小僧次郎吉の墓
 ここには無縁仏だけでなく、竹本義太夫、猿若勘三郎、多くの力士など有縁者の墓も多い。
 それらの中にねずみ小僧次郎吉の墓があり、人気を呼んでいる。この墓には他では見られない「お前立ち」というのがある。昔は、この墓を欠いて欠片を持っていると博打に強いというので、賭博や無尽に出かける人が良く欠きに来たという。そのままでは次郎吉の墓が無くなってしまうというので、身代わりとして欠きやすい柔らかい石で作った墓をお前立ちとして置いたという。今では受験合格、選挙当選を願って、この石を欠いて行く人が多いという。  

旧安田庭園
 回向院の前の通りを北に向かうとJR総武線の両国駅。それを過ぎると右手に国技館、相撲博物館、江戸東京博物館がある。すべてを見ると1日では回りきれないので、これらは別の機会にしよう。
 旧安田庭園は江戸時代笠間藩主の本庄因幡守宗資が築造したもの。隅田川の水を引いて潮入りとした回遊式庭園。のち安田善次郎の所有となるが、大正11年に安田善次郎から東京市に寄付された。その後震災や戦災で荒れ果てていたものを昭和42年に墨田区に移管して復元された。

東京都慰霊堂
 旧安田庭園を通り抜けると、その先に横網町公園があり、その中にある。元陸軍被服本廠のあったところで、関東大震災のときにはここで4万人の人が焼死したという。それら被災者の慰霊のために昭和5年に建てられたのがこの慰霊堂。翌年には復興記念館が建てられ、当時の被災品や遺品、写真などが展示され、被害の実情を伝えている。

 横網町公園を北に出て左へ。蔵前橋の手前から再び隅田川テラスを歩く。
 このあたり、遊歩道脇に水路が作られており、草木も沢山植えられている。

手押しポンプ
 水路の水は満潮時隅田川の水位が上がると自然に流入するようになっているが、水位が低い期間が長く続くと干上がってしまう。これを解消する手段として、隅田川の水を入れるためにこの懐かしいポンプが備えられた。
 どなたでも自由にポンプを押して水入れに協力くださいとあったので押してみたが、スカスカと圧力が掛からず水は出なかった。呼び水を入れなければ駄目のようだ。  

浅草
 終着地浅草に着いたのは早かったが、泡の盛り上がったジョッキをイメージしたビルの中にあるビヤホールで喉を潤しているうちにすっかり暗くなった。
 ジョッキの左奥には建設中のスカイツリー。右のきん斗雲のようなものは、聖火台の炎をイメージしているとか。




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