街歩き


増上寺から愛宕山へ


2015.6.20歩く

コ ー ス  徒歩約1時間25分
JR浜松町駅(7分)芝大神宮(2分)芝大門(7分)芝公園(5分)芝丸山古墳(10分)増上寺(7分)東京タワー(27分)愛宕山(20分)JR新橋駅

 徳川将軍家の菩提寺で、6人の将軍の眠る増上寺から、都内でも最大級の芝丸山古墳を訪ね、さらに東京タワーを経て愛宕山まで歩いた。都心のビル街にあって、なお豊かな緑が残されており、それぞれが人々に憩いの場を提供している。
 


 

JR浜松町駅から増上寺へ
 浜松町駅北口を出て、貿易センタービルの前の道を正面に東京タワーを見ながら西へ進む。
 行く手に芝大門が見えてくるが、一つ手前の大門の交差点を右に折れると、すぐ左に芝大神宮への参道がある。  
芝大神宮
 寛弘2年(1005年)、当地にあった伊勢神宮の御厨に、伊勢神宮の分霊を祀ったのが始まりとされている。当初は飯倉神明宮、その後芝神明などと呼ばれていたが、明治5年以降芝大神宮となった。
 本殿は関東大震災や東京大空襲ほか、度々火災に遭うもののその都度再建され、現在の本殿は昭和39年に再建されたもの。
 祭神は、天照皇大御神と豊受大御神。例大祭は9月16日だが、その前後11日間に亘って行事がだらだらと行われるので「だらだら祭り《として知られている。
 またここは、歌舞伎「神明恵和合取組《の題材となった、文化2年(1805)の境内で行われていた勧進相撲の力士と「め組《の火消との大喧嘩の舞台になったところでもある。
 本殿の前では結婚式を終えたばかりの新郎新婦とその親族の記念写真の準備で大わらわだった。参道に近くのホテルのバスが待っていたので、これからそちらに移って盛大に披露宴が行われるのだろう。自分たちにもこんな時があったはずだがもう半世紀近くも前のこと、記憶も薄れがち。
 参拝は少し遠慮して遠くからの拝礼で済まし次へ向かった。

芝大門
 神社の左脇を通り抜けると芝大門が見える。増上寺の大門で、この地の地吊にもなっており、ここからが増上寺の参道に当たる。増上寺の寺域は広く、かつては浜松町駅辺りまであったという。  

台徳院霊廟惣門
 大門から先に進むと正面に増上寺の三門がある。信号を渡り、参拝は後にして築地塀に沿って左(南)に進むと右手に旧台徳院霊廟惣門がある。
 これは台徳院(徳川2代将軍秀忠)霊廟の惣門で、寛永9年(1632)に3代将軍家光によって建てられた。門の左右に阿・吽形の2体の金剛力士像が安置されている。  

芝公園
 台徳院霊廟惣門の左手には広々とした芝生広場がある。芝公園の一角で、明治6年、上野(寛永寺)、浅草(浅草寺)、深川(深川八幡)、飛鳥山(王子稲荷)と共に都市型公園として日本で最初に指定されたという。
 園内は広く、南西部に縄文時代後期とみられる丸山貝塚、その上に都内最大級規模の丸山古墳がある。他にも開拓使仮学校跡などの史跡が点在している。
 その他スポーツ施設として、野球場とテニスコートなどがある。  
芝丸山古墳
 芝公園の南側の一角にある都内でも最大級といわれる前方後円墳。  規模は、全長106m前後、後円部の直径は約64m、高さ9m。南南西に向いた前方部の幅は約40m。築造は5世紀頃と推定されている。
 明治31年に発掘調査が行われたが、既に江戸時代に後円部が大きく削り取られていて、埋葬施設が失われていたため、詳細は上明。規模からみて被葬者は当時南武蔵でも有数の族長ではなかったかとみられている。
 古墳は丸山貝塚の上に築造されている。東南斜面からハイガイ・ハマグリなどの貝殻や土器の破片が発見されていることから、この丸山貝塚は縄文時代後期のものとみられている。  

伊能忠敬測地遺功表の碑
 後円部上部は削られてベンチなども置かれ、小公園のようになっている。また伊能忠敬がこの地で測量実習したことから、それを記念して「伊能忠敬測地遺功表《の碑が建てられている。  

芝東照宮
 丸山古墳の北隣に芝東照宮がある。
 当初、増上寺内境内に徳川家康を祀る廟として建てられたが、明治初めの神仏分離令により、増上寺から分かれて東照宮となった。
 祭神は徳川家康。御神体は慶長6年(1601)正月、駿府城において家康が自ら命じて彫刻した等身大の像で、「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん《との家康の遺言により東照宮に遷したものという。
 現在の社殿は、昭和44年に再建されたもの。
 ここにお参りして先の増上寺山門まで戻る。

増上寺三解脱門
 三解脱門とは、三つの煩悩「貪欲《「瞋恚(しんに)《「愚痴《を解脱する意味で、本堂へ入るのに通らなければならない門で、略して三門あるいは山号を持つお寺では山門と言っている。
 大きな門である。間口が19m、奥行き9m、高さ21mの二層建てで、上層部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
 はじめ慶長16年(1611)に建てられ、元和8年(1622)に再建されたもので、重要文化財に指定されている。
増上寺大堂殿
 増上寺は、正式には三縁山広度院増上寺という浄土宗のお寺で、七大本山の一つ。
 室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に浄土宗のお寺として建てられたという。その後、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)現在地へ移された。
 増上寺は、江戸時代初期に浄土宗の僧侶の養成機関・学問所として定められた関東十八檀林の一つでもある。
 戦災により三門・経蔵・黒門以外の建物は焼失した。今の本堂は昭和49年に再建されたもの。本尊は室町時代作の木造阿弥陀如来座像で大殿2階本堂に安置されている。

徳川将軍家墓所
 増上寺は上野寛永寺とともに徳川将軍家の菩提寺となっており、歴代将軍は両寺に分かれて埋葬されている。
 この門は「鋳抜門《とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣)の宝塔前の中門だったもの。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている(青銅製)。  

 増上寺には、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠夫人)、皇女和宮(14代家茂夫人)ら5人の正室ほか歴代将軍の側室、子女多数が埋葬されている。
 旧徳川将軍家霊廟は御霊屋ともよばれ、増上寺大殿の南北(左右)に立ち並んでいたが、戦災で焼失・荒廃していたものを一か所にまとめ、現在地に改葬された。

東京タワー
 増上寺を出て西へ向かうと、これまでコース上見続けていた東京タワーの下に出る。昭和33年電波塔として建てられた。会社に入って初めての出張で、大阪から仙台へ向かう途中見た建設中の光景(三丁目の夕陽の光景)だけがなぜか記憶に残っている。
 当時東京のシンボルとして、全国からの観光客の人気スポットとなり、修学旅行の必須の場所でもあった。高さにおいてほぼ倊のスカイツリーが出来てからは、人気もそちらに奪われたような感じだが、イルミネーションや各種イベントの開催などの工夫を凝らしており、多くの観光客を迎えている。

愛宕神社
 東京タワーから愛宕山に向かった。標高26mの頂上には愛宕神社がある。慶長8年(1603)徳川家康が江戸開府に当たり、江戸の防火・防災の守り神として創建したという。主祭神は火の神・火産霊命(ほむすびのみこと)。
 「伊勢へ七度、熊野へ三度、芝の愛宕へ月参り《と言われるように、江戸庶民の信仰を集めた。また幕末、桜田門外の変の時には水戸浪士の集合場所になったところで、その碑が建っている。
 愛宕山は、大正14年、日本で初めてラジオ放送をした場所として知られている。その放送局跡地にNHK放送博物館が建てられているが、目下リニューアルのため休館中だった。   

男坂
 愛宕山へは反対側の隧道の横からから上ったので、下りはこちらからと思って来てみたら、恐ろしいほどの急坂。脇の手すりにつかまりながら慎重にくだったが、 横を小学生の女の子がトントンと駆け下りていった。
 下りきってよく見たら鳥居の脇に「出世の石段《とあった。ここを登れば出世するという意味だろうか。残念降りてきてしまった。今更出世は望むべくもないが、人生の下り坂を歩んでいる思いで、しんみりしてしまった。それにしても転げ落ちないだけまだよかったか。
 ここから地下鉄神谷町駅まで10分余り。JR新橋駅までは15分ほど。時間に余裕があれば近くの大倉集古館なども見てみたい。




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