街歩き


千寿七福神と千住宿を歩く


2009.1.3歩く

コ ー ス  徒歩2時間
JR常磐線北千住駅駅(10分)金蔵院(2分)森鴎外旧居跡(5分)問屋場跡(10分)氷川神社(5分)源長寺(5分)稲荷神社(5分)八幡神社(10分)千住神社(20分)元宿神社(18分)大川町氷川神社(20分)千住本氷川神社(10分)北千住駅

 千住は日光道中・奥州道中・水戸道中の最初の宿として、本陣、脇本陣のほか55軒の旅籠が軒を連ね大変賑わったところ。それだけに古い神社や寺院、商家が今も残る。また松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ちの場所でもあった。
 千住七福神は2007年までは神社3箇所、寺院4箇所で行われていたが、2008年よりすべて神社となった。  今回は新しい七福神を主として、千住宿を歩いてみた。

   

JR常磐線北千住駅
 スタートとなる北千住駅へは上野駅から常磐線で11分。他に東武伊勢崎線、東京メトロ日比谷線、同千代田線、つくばエクスプレスが乗り入れている。
 西口へ出て、日光街道に通じる広い道路を行き2つ目の信号を左に入る。道なりに行くと左に金蔵寺がある。

金蔵寺
 正式には氷川山地蔵院といい、真言宗豊山派のお寺。建武2年(1335年)の創建と伝え、本尊は閻魔大王。
 門を入るとすぐ左に2つの無縁塔がある。向かって右が天保8年(1837年)の大飢饉での餓死者の供養塔。この地の餓死者828人のうち370人をここに葬ったとある。左側が千住宿の遊女の供養塔。千住宿には本陣・脇本陣のほか55軒の旅籠があり、うち36軒は遊女屋で大変賑わったというが、ここで病死した遊女は無縁物同様に葬られたという。

森鴎外旧居跡
 金蔵寺を出てさらに進むと足立都税事務所がある。  森鴎外の父静雄は、元津和野藩主の典医であったが、維新後上京し、足立郡医を経て明治14年ここに「橘井堂森医院」を開業した。
 鴎外は、東大医学部を卒業後軍医となり、明治17年にドイツ留学することになるが、それまでの4年間をここで過ごし、人力車で陸軍病院に通ったという。
 その跡地は現在足立都税事務所となっている。

千住宿問屋場・貫目改所跡
 森鴎外旧居跡を右へ行くと旧日光街道に出る。これを左に行くと右手に高いビルがあり、その前が広場になっている。千住宿問屋場・貫目改所のあったところ。
 宿場には旅行者に対して人足と馬の提供を義務付けられていたが、日光街道最初の宿場千住には人足50人と馬50疋が用意され、ここ問屋場で手配していた。また、馬が運ぶ重量には制限があり、その重さにより運賃が決められていたという。

 千住高札場跡
 さらに進むと交差点に出る。信号を渡ったところが高札場のあった所で、それを示す石標がある。反対側は一里塚があったところ。ここで旧日光街道と分かれて左折し、次の東京芸大前の信号を右へ、ミリオン通りの商店街を行くとやがて左に氷川神社がある。

氷川神社(弁財天)
 創建は元和2年(1616年)と伝える。本殿左にある関屋天満宮は「江戸名所図会」にも載っているほどで、江戸近郊の名所であった。
 七福神の弁財天を祀る。弁財天は音楽をつかさどる神として普通琵琶を持っているが、ここのは、右手に剣、左手に宝珠を持ち、下部に三猿を刻んでいる。これは道祖神として造られたもので、このようなものは珍しく、東京ではここだけという。

源長寺
 氷川神社を出て先に進むと墨堤通りに出る。ここを右へ、旧日光街道を渡った先に源長寺がある。
 この墨堤通りは、かつての水除け堤の跡で、石出掃部亮吉胤が築いたことから掃部堤といわれた。源長寺は、その石出掃部亮吉胤が慶長15年(1610年)に建立と伝える。正式には稲荷山源長寺と言い、浄土宗のお寺。本堂裏に石出掃部亮の墓がある。

やっちゃ場の跡
 源長寺から少し戻り、再び旧日光街道に出て信号を南に渡る。
この辺りはやっちゃ場の南詰めで、青物問屋ばかりでなく、生鮮品などの問屋も軒を並べていた。今も営業はしていないが屋号や取扱う商品の看板を掲げた家が並んでいて、当時の面影が伝わってくる。 

稲荷神社(福禄寿)
 いろんな看板を楽しみながら少し進むと、旧日光街道と彫った石標があるのでここを右に入る。やがて道は二手に分かれるので、右に入るとすぐに稲荷神社がある。ここには福禄寿が祀られている。  

八幡神社(毘沙門天)
 稲荷神社を反対側に出ると日光街道。ここを右へ、千住宮元町の交差点を渡るとすぐ先左側に八幡神社がある。ここには毘沙門天が祀られている。


八幡神社を出て次の信号の手前を左に入るとすぐ先左に千住神社がある。
千住神社(恵比寿天)
   長い参道を持つ立派な神社で、歴史は古く、千住に集落が形成され始めた延長4年(926年)伏見稲荷より分霊を勧請して、稲荷神社としたのが始まりとされている。その後氷川神社となり、大正4年に千住神社と改められた。今の社殿は戦災後再建されたものである。祭神は、須佐之男命、宇迦之御魂命。
 ここには恵比寿天が祀られている。
 境内には富士塚があるが、崩壊の危険ありとのことで7月1日の富士山山開き以外の日は登山は禁止されている。また芭蕉の「ものいへば唇さむし秋の風」の句碑がある。

元宿神社(寿老神)
 千住神社を出てさらに先に進むとやがて墨堤通りと合流しそれに沿って進む。この辺り車がうるさいので、1本右手、中の道を行っても良い。やがて西新井橋の手前で西友の前に突き当たるのでここを右に行く。
 すぐ左に元宿神社がある。この辺りの地名、今は元町となっているが、元は元宿といい、千住で最も早く開拓されたところ。元宿の鬼門に当たるところに祀られた鎮守社である。ここには寿老神が祀られている。  

大川町氷川神社(布袋尊)
 元宿神社の前の道の1本南側の道を先に進む。懐かしい路地や立派な銭湯を見ながら進むと、左手に大川町の千住神社がある。千住5丁目の鎮守で、鎌倉時代の永仁年間(1293〜1299年)の創建と言われている。 ここには布袋尊が祀られている。  

千住川田浅間神社富士塚
 氷川神社の境内にも富士塚があった。富士山の溶岩を固めて築造されたもので、標高約3m。元は町の西北にあったものが、荒川放水路の開削工事や都の水道幹線工事のために現在地に移されたと言う。
 文政7年(1824年)の築造で、そのときの碑がある。東京だけでも50数箇所にあり、関東各地ではいくらくらいあるのだろうか。

本日休業
 千住神社を出て大正通を南へ向かう。2つ目の信号、信用金庫のある角を左折する。すぐ先に、ここにも立派な銭湯・大黒湯がある。入口にこんなのが掛けられていた。意味は、「ぬ」と「板」で「抜いた」。すなわち湯を抜いたということで、「終了(休業)」ということ。裏返すと「わ」。「わ」と「板」で「沸いた」。こちらは、湯が沸いたということで「営業中」。洒落っ気があって良いですね。

千住本氷川神社(大黒天)
 銭湯を過ぎて4号・日光街道を渡り、直進して2つ目の通りを右折すると千住本氷川神社がある。ここには大黒天が祀られている。境内では町内会の人たちだろうか、威勢の良い声が飛び交い、うどん・そば・ラーメンなどどれも100円で販売していた。ちょうどお昼過ぎで、沢山用意されていたテーブルは満席だった。

 神社を出て先に進むと駅前の広い通りの商店街に出る。ここを左折すると前方に北千住駅が見える。  

 七福神を中心に千住の街を回ってきたが、少し時間があれば寄り道をしてみよう。
 千住本氷川神社〜直接旧日光街道に出て北へ向かうと、幕末の典型的な商家建築であるどっしりとした横山家がある。向かいが千住絵馬屋の吉田屋。その先で旧日光街道と旧水戸街道が分かれる。近くに長屋門のある名倉医院があるが、将軍家鷹狩りのときの休息所となったところ。  

 少しお腹が空いたようなら、横山家の近くにある「槍かけだんご」がおいしい。紀州備長炭で焼いていて香ばしい香りがしている。槍かけとは、水戸黄門一行が近くの清亮寺で休息した折に、槍を立てかけた「槍かけ松」があったところから名付けたと言う。
 また、福禄寿の稲荷神社へ行く前に旧日光街道をそのまま南に進むと、千住大橋の手前に芭蕉が奥の細道に旅立った場所を示す「矢立初めの碑」や、伊豆長八の鏝絵のある「橋戸稲荷」などがある。  






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