街歩き


武蔵国分寺・国分尼寺跡を訪ねて


2006.01.15歩く

コ ー ス  徒歩1時間10分
JR中央線西国分寺駅(15分)武蔵台遺跡公園(1分)旧鎌倉街道(5分)国分尼寺跡(3分)文化財資料展示室(5分)武蔵国分寺跡(3分)国分寺(3分)薬師堂(7分)真姿の池(15分)不動橋(8分)殿ヶ谷戸庭園(2分)JR国分寺駅

武蔵国分寺跡を訪ねた。西国分寺の駅前から「史跡通り」を行くが、その名の通りこの先には史跡が多い。縄文時代の住居跡、旧鎌倉街道、古代の国分寺跡等々4000年の歴史を訪ね歩くコースだ。歩く距離は短いが、見るべきポイントが多く、たっぷり1日時間を取って楽しみたい。

   

JR中央線西国分寺駅前
駅南口を出てロータリーの先の道を南下する。この道は国分寺や国分尼寺のあった史跡公園に通じる道として「史跡通り」と名付けられている。

武蔵台遺跡公園
およそ700mほどで小さな細長い武蔵台遺跡公園に突き当たる。周囲を取り囲む都営アパートの建設の際の調査で、多くの住居跡や土器・石器が発掘されたので、この辺りを武蔵台東遺跡と名付けられた。そのうちの一つ、約4000年ほど前、縄文時代中期の柄鏡形敷石住居跡がこの公園の一角に移設され保存されていた。
旧鎌倉街道
住居跡を出て100mほど東へ、武蔵野線に沿うように右へ折れると急に静かな雑木林の切通し道になった。鎌倉街道跡として保存されている。鎌倉街道は幕府のあった鎌倉から諸国へ通じる道で、上の道、中の道、下の道があった。ここは上の道の一部で、鎌倉から町田、府中を経てここを通り、上野、信濃に向かっていた。頼朝が狩猟に通った道であり、新田義貞が分倍河原で戦ったときもこの道を南下した。
途中に市内にある祥応寺の前身とされる伝祥応寺跡がある。

国分尼寺跡
鎌倉街道のゆるい坂道を下ると国分尼寺跡だった。聖武天皇の発願により国分僧寺と共に国毎に建てられた。発掘調査も終わっており、中門、金堂、尼坊跡も判明し、それらの礎石もきれいに復元・整備され、国分寺市立歴史公園として開放されている。金堂跡前の復元された4本の柱は幢竿で珍しい。
国分寺市文化財資料展示室
横を走るJR武蔵野線のガードを潜り、府中街道に出たところで信号を渡って先の道を進むと右手に市立第4中学がある。この体育館の一角、道に面したところに国分寺市文化財資料展示室がある。ここには文字瓦、緑釉花文皿、唐草四獣文銅蓋、観世音菩薩立像(複製)など、周辺遺跡の発掘調査での出土品が展示されている。
この観音像は様式から白鳳期後半のものとされ、となると関東では数少ない白鳳仏の一つとなる。他は深大寺の釈迦如来像と竜角寺の薬師如来像。

武蔵国分寺跡
天平13年(741年)、当時流行った疫病の平癒や政治の混乱を治めるため聖武天皇の発願で、国毎に国分寺が建てられた。伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際焼失したと伝えられている。昭和31年(1956年)から発掘調査が始められ、現在も続いているが、調査の結果、その規模は全国でも最大級のものとされている。

七重塔跡
金堂跡の東南方に七重塔跡がある。真中の大きな石が心柱を支える心礎。この塔は承和2年(835年)落雷によって焼失し、その10年後に再建されたが、分倍河原の合戦の際再度焼失した。

国分寺楼門
元に戻り、講堂跡を北に入ると現在の国分寺。立派な楼門がある。この楼門は、元は東久留米市にある米津寺の楼門であったが、明治28年(1895年)に移築されたもの。米津寺は旗本米津出羽守田盛が菩提寺として万治元年(1659年)に建てたものだが、度々の火災に遭い、この楼門だけが焼失から免れた。

現在の国分寺
正式名称は医王山最勝院国分寺といい新義真言宗のお寺。境内に入って右奥に国分寺文化財保存館がある。館内には国分寺と国分尼寺全体の復元模型が展示されているので、創建当時の姿を見て行こう。併せて付近からの出土品も展示されており、自由に見学することが出来る。

国分寺万葉植物園
境内は万葉植物園となっている。これは万葉集に歌われた植物を、昭和25年から38年までの13年間にわたって、当時の住職星野亮勝氏が集めたもので、植物の横に歌と簡単な紹介が添えられている。植物は当地で栽培できるものばかり160種ほど集められている。

仁王門
万葉植物園を出て右(西)へ100mほど行った所で、右へ石段を登ると立派な仁王門があった。案内によると、宝暦年間(1751〜1763年)に建立されたもので、建武2年(1335年)に建立された旧薬師堂に使用されていた建築材を再利用したとのこと。門の左右には、享保3年(1718年)に造立された、阿・吽の仁王像が安置されている。
国分寺薬師堂
仁王門を入ってさらに石段を上がると薬師堂があった。これは建武2年(1335年)に新田義貞の寄進により、国分寺金堂跡に建立されたもので、その後宝暦年間に現在地に再建されたという。建武2年といえば分倍河原の合戦で焼失した2年後だから、罪滅ぼしのつもりだったのか。
堂内には平安時代末期か鎌倉時代前期の造立と思われる木造薬師如来坐像(国重文)が安置されている。国分寺焼失の折持ち出されて難を逃れたもの。10月10日に一般開扉される。

お鷹の道
再び現国分寺の前まで戻り、そこから東へ向かう。住宅街の中を細い流れに沿って遊歩道が整備されている。夏には蛍が飛び交うという。
江戸時代、この辺りは尾張徳川家の御鷹場になっていた。それでこの清流沿いの道を「お鷹の道」と呼ばれるようになった。

真姿の池
国分寺からお鷹の道を5分ほど行き、左に入ったところにあった。小さな池がある。池の真ん中の島に祠宇があり、弁天様が祀られている。ここには真姿の名のいわれの伝説がある。

真姿の池湧水群
真姿の池の前の流れには国分寺崖線下の湧水が出ていた。きれいな水で、環境庁の名水100選に選ばれており、都の名勝に指定されている。ポリタンを幾つも持ってこの水を汲みに来ている人がいた。

表札工房・山崎商店
元に戻り東へ4分ほどでお鷹の道は終わる。左右どちらに向かっても良いが、右の広い道に出て東へ150mほど行くと、表札工房というお店があった。店の壁中表札・看板だらけの賑やかな店。店内もびっしりと木彫りの表札。すべての名字の表札があるという。ここを国分寺駅まで700mの標識に従って左に折れる。

不動橋
表札工房から静かな住宅街の中を北へ100mほど行き、突き当りを右へ道なりに行くと10分ほどで国分寺街道に出る。その手前に野川に架かる木造の不動橋がある。橋を渡ったところに石橋供養塔があった。案内によると、この供養塔は天保3年(1832年)の造立で、常に人に踏まれている石橋を供養するために立てられたとのこと。石橋供養塔というからには元は石橋だったのだろう。横に橋の名前の由来となった不動明王と彫られた庚申塔がある。

殿ヶ谷戸庭園
不動橋を渡り、一里塚の分岐を左に坂道を登っていくと500mほどで国分寺駅。その手前右手が殿ヶ谷戸庭園。大正2年から4年にかけて、後の満鉄副総裁江口定條が別邸として設けたものを、昭和14年に三菱財閥の岩崎彦弥太が買い取って和洋折衷の回遊式林泉庭園とした。さらに昭和49年に東京都が買収して開園した。崖線から湧き出す水が豊富で、武蔵野に自生する植物や昆虫も数多く見られる。ここでゆっくりすれば、国分寺駅はすぐ目の前だ。

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