街歩き


狛江の里に玉川碑を訪ねて


2010.4.14歩く

コ ー ス  徒歩1時間15分
小田急和泉多摩川駅(5分)玉泉寺(15分)多摩川左岸(12分)五本松(5分)玉川歌碑(15分)伊豆美神社(5分)兜塚古墳(5分)むいから民家園(7分)亀塚古墳(15分)泉龍寺(3分)小田急狛江駅(5分)経塚古墳(5分)小田急狛江駅

万葉集東歌の14−3373「多摩川に…」の玉川碑のある狛江は、5世紀頃高句麗からの帰化人が住んだところとして知られている。その頃築造された古墳は70基ほどあったというが、宅地化が進み、今は10数基あるのみ。そんな古墳と玉川碑を訪ね、万葉の昔を偲んでみた。

    

小田急和泉多摩川駅
 新宿から急行で成城学園前へ。ここで各停に乗換える。新宿から24分。      

 西口方向の改札を出て左へ、先の商店街を左(東)へ100mほど行き、二つ目の角を左に折れると玉泉寺の門がある。


玉泉寺
 正しくは熊野山観音院玉泉寺といい、永世元年(1504年)尊祐法印の開創による天台宗のお寺。本尊は薬師如来で、行基作の十一面観音菩薩像を併せて安置している。多摩川三十三観音霊場の第一九番の札所になっている。
 境内に、地上50cmのところから二股に分かれたボダイジュがある。高さ12m。樹齢は凡そ300年と推定されていて、狛江市の天然記念物として指定されている。


多摩川の堤防
 いちど駅まで戻り、高架下を通り抜け、北の世田谷通りに出て左へ行くと多摩川の堤防上に出る。右堤防下の見事な桜並木を見ながら堤防上を上流に向う。晴れていれば上流方向に奥多摩の山々が見える。

五本松
 堤防の右下に西河原公園が続き、左の河原には大きな黒松が見えてくる。五本松といわれているが、よく見ると10数本あった。天気の日にはここらあたりでお弁当を広げるのも良い。  

 多摩川に さらす手作り さらさらに
   なにそこの児の ここだかなしき
           万葉集 14−3373
 万葉集東歌の一首。多摩川に晒す手作りの布ではないが、さらにさらに、どうしてこの娘がこんなにかわいいのだろうと言う意。さらさらには、さらさらと晒すと、さらに一層と言う意の掛詞。
 さらす手作りは、手織りの布で、当時、調(租=税)として納める布をここで晒していたのだろう。調としての布を作っていたところとして、近くに調布と言う地名もある。   

 上記多摩川の歌碑が近くにある。堤防右下の西河原公園が尽きるところに水神社がある。ここはかつて六郷用水の取り入れ口のあったところ。この信号を渡り北へ70mほど入ったところ、住宅街の一角に「玉川碑」がある。

 碑の裏面には、この碑がここに建てられたいきさつが記されている。碑の近くには近寄れないが、かわりに地元の玉川碑に集う会が、詳しく解説した印刷物を置いている。  
玉川碑
 それによると、わが国には玉川と名の付く川は6つある。当時猪方村で手習師をしていた平井董威(元土浦藩士)という人がその場所を永年考証探索した結果ここと定め、老中松平定信に碑文を書いてもらい、文化2年(1805)に玉川碑を建てたという。
 その後文政12年(1829)の洪水で流失したのを、大正12年(1924)に渋沢栄一が中心となって募金活動を始め、再建されたのが現在の碑。  碑面の文字は、流失した万葉碑の拓本があったので、それを元に造られたという。碑の高さは2.7m。幅1.4m。

伊豆美神社
 玉川碑から200mほど北へ行き、二つ目の角を右へ。さらに200mほどで突き当たりを左へ行き、すぐ右へ入ると伊豆美神社。参道に高さ2.65mの小振りの石の鳥居がある。
 柱の刻銘から、慶安4年(1651年)石谷貞清の寄進したものと分かる。石谷貞清は、この地を領した徳川の旗本石谷清定の三男で、慶安4年に江戸北町奉行となった。直後に慶安事件があり、由井正雪に加担した丸橋忠弥らを江戸で逮捕し、処断したことなどで知られる。

 社伝によると、寛平元年(889年)の創建で、当初は六所宮と称し、多摩川河畔の低地に建てられていたが、天文19年(1550年)の多摩川洪水で流されたため、同21年に現在地へ移されたという。明治元年(1868年)伊豆美神社と改称された。祭神は大国魂大神。


 境内から東の通りへ出て右へ行くとすぐ左手に、ここも住宅街の一角に兜塚古墳がある。
兜塚古墳
 狛江はその名で分かるように5世紀初めに高麗人の渡来地として知られるところ。この関係の古墳も多く、「狛江百塚」と呼ばれたほどで、およそ70基ほどあったといわれている。今ではほとんどが宅地化されておりわずかに残る程度。
 兜塚古墳もそのうちの一つで、直径約30m、高さ約4mの円墳で、墳丘からは円筒埴輪片が出土しているが、内容は良く分かっていない。5〜6世紀頃の築造と考えられているが、比較的良く保存されているため、東京都の史跡に指定されている。

児童公園
 兜塚古墳から南へ100mほどで六郷用水跡道路に出る。六郷用水は、慶長2年(1597年)から14年の年月をかけて、用水奉行の小泉次太夫が、多摩川の水神社の辺りから野川までの23kmを灌漑用水として掘ったもの。昭和42年にはその役目を終え、埋め立てられて道路となり、水の流れから人と車の流れに変わった。
 その道路を渡ったところが児童公園となっており、池や東屋、お手洗いがあり、一休みするのに良いところ。

むいから民家園
 児童公園の東隣にある。「むいから」とは、「麦から(麦藁)」の訛ったもので、昔はこの辺りの民家は麦藁で屋根を葺いたいたという。
 ここには江戸時代の農家・荒井家の住宅(狛江市指定文化財)を移築保存しており、庭で遊んだり、縁側や座敷で自由にくつろげるようにしている。旧高木家の長屋門は平成22年春に復元されたばかり。入園無料。いろんなイベントも催しているが、水曜日と木曜日は休園。  

亀塚古墳入口
 民家園の先の田中橋の交差点を渡り、用水跡の道路と分かれて、一つ右の道に入る。住宅街のくねくねと曲がる道を行くと民家の塀に亀塚古墳への案内板がある。
 二つ目の案内板に従って、ガレージの横の細い路地を入ると亀塚古墳がある。

亀塚古墳
 狛江古墳群の一つだが、元は全長40mのこの辺りでは唯一の帆立貝形の前方後円墳だった。昭和26年と28年に発掘調査が行われており、後円部から2基の木炭槨と1基の石棺が見つかっており、副葬品も多数出土している。その中に中国の後漢時代に作られた「神人歌舞画像鏡」か見つかっていることや、その他の副葬品からみて、畿内王権と結びついたこの辺りの首長の墓だったと考えられている。東京都の史跡に指定されている。

 残念ながら、現在はほとんど削り取られ、周りをすっかり民家に囲まれて、裏庭のようなところにほんの一部が土盛のように残っているだけ。中央に徳富蘇峰が揮毫した碑が建てられている。
   亀塚古墳を出て東へ。狛江第3中学の北側に沿っていくと小田急の高架に突き当たる。それに沿って左に折れるとすぐに泉龍寺の参道がある。

泉龍寺
 境内にある泉龍禅寺略縁起によると、天平神護元年(765年)良弁僧正が法相宗兼華厳宗として開山したとあるが定かてない。その後衰微していたが、江戸時代になって徳川の旗本石谷清定がここに知行地を得て、当寺を菩提寺として整備し、中興開基となったという。現在は曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦如来。
 正面にある鐘楼は山門を兼ねており、天保15年(1844年)に建てられたもので、大変美しい造りとなっている。また、本堂に安置されている延命子安地蔵尊葉、まわり地蔵として信者の家を廻りながら信仰を集めていたという。

弁財天池
 境内の東側にある弁財天池は、古くからどんなに旱魃のときにも涸れずに清水が湧き出し、付近の田畑を潤していたという。このあたりの地名和泉もここから付けられたものといわれており、「江戸名所図会」にも紹介されている。しかし、付近の開発のためか水位が下がり、涸れてしまったので、井戸水を汲み上げて補給しているという。
 ここから緑を保全する緑地の横を通って駅まですぐだ。さらに駅の北側、六郷用水路跡の道路沿いに経塚古墳がある。  

経塚古墳
 直径40mほどの円墳で、5世紀後半に築造されたものと言われている。なお、墳丘上に13世紀から16世紀にかけての板碑が30基ほどあったことや、常滑の蔵骨器が出土していることから、中世において墓として再利用されたのではと言われている。
 古墳は、隣のマンションが建てられたときに整備され、金網で囲ってあるが、マンションの管理室に言えば中に入れてもらえる。  

狛江駅
 この周辺に70基ほどあった古墳も、ほとんどが宅地化されており、残されたものは13基とか。それも、都の史跡となっている亀塚古墳、兜塚古墳以外は個人の家の敷地内。見学するときは許可を得てからにしたい。
 


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