里山歩き


下野風土記の丘から下野薬師寺跡へ


2009.11.8歩く

コ ー ス  徒歩4時間
東武宇都宮線壬生駅(15分)壬生一里塚(7分)黒川・御成橋(15分)吾妻古墳(25分)丸塚古墳(20分)下野風土記の丘(資料館・下野国分寺址・天平の丘・防人の道・下野国分尼寺址 一巡40分)(10分)国分寺薬師堂(80分)JR自治医大前駅(タクシー8分)下野薬師寺跡・歴史館(15分)龍興寺(40分)JR自治医大前駅

 今から凡そ1300年ほど昔、今の栃木市の東部、田村町の辺りに下野国の国庁が置かれていた。その後思川を挟んで今の下野市壬生の地に国分寺、国分尼寺が建立され、この辺りは下野国の政治や文化の中心地となっていた。今国分寺・国分尼寺跡が発掘され、下野風土記の丘として整備されている。  近くには古墳時代最後のものと思われる吾妻古墳、丸塚古墳があり、少し離れて弓削道鏡が流された下野薬師寺跡もある。これらを結んで歩いてみた。

    

東武宇都宮線壬生駅
 浅草・北千住から東武日光線で栃木乗換え宇都宮線壬生駅へ。北千住から1時間36分。

 駅前広場の先を左へ入る。300mほどで県道18号線に出るのでこれを左へ、線路を渡り南下する。  

壬生一里塚(国史跡)
 この通りは日光道中壬生通りで、行くて右側にこんもりとした塚が見えてくる。壬生一里塚で、日本橋から23里目になるという。
 壬生通りは、小山市の喜沢追分で日光街道から西へ分かれ、ここ壬生を経て鹿沼市の楡木追分で倉賀野から来る日光例幣使街道に合流、今市で再び日光街道に合流するが、この小山・楡木間を壬生通りと言っている。
 将軍の日光社参のときは、この地の壬生城主はここまで出迎えていたという。


黒川
 一里塚過ぎるとやがて黒川に差し掛かる。これを御成橋で渡る。

 御成橋を渡って程無くT字路。吾妻古墳・吾妻工業地域の標識に従って左折し、工場団地の中を進む。

   やがて前方にこんもりとした林が見えてくるのが吾妻古墳。
吾妻古墳(国史跡)
 この辺り黒川東岸の台地上には70ほどの古墳があるという。その中心となっているのが吾妻古墳。
 前方後円墳で、墳丘は2段となっており、第1段の全長が117m。第2段は86m。周囲の堀もきれいに残されており、この堀を含めた全長は170mに達し、県内最大級のもので、古墳時代終末期のものと言われている。
 前方部にあった石室玄門は、壬生藩主鳥居忠宝が隠居所をつくる時に移したといい、現在壬生城址公園に保存されている。

工場地域
 吾妻古墳を出てすぐ左へ林の中の道に入る。
 すぐに林を抜け、突き当りがトヨタ自動車(ホーム)の工場。フェンスに沿って右へ行きすぐ左へ。トヨタの正門を通り過ぎそのまま直進。右から来る街路樹のイチョウが色づき始めていた。  

稲藁
 道は再び林の中に入り、そこを出ると田園風景が広がる。刈り入れの終わった稲が束ねて並べられていた。最近は脱穀と同時に藁も細かく切り刻み、土に戻してしまうのが多いが、ここは牛の飼料にするのだろうか。周辺には牛牧舎が点在している。

丸塚古墳
 国分寺町国分配水場を右に見て、部落の中の道を真直ぐ進む。やがて前方右手に木立が見えてくるのが丸塚古墳。
 こちらは名前の通り円墳で、直径60m、高さ6m。円墳としては比較的大きなほう。やはり7世紀、古墳時代の終わり頃に築造されたものと推測されている。古くから開かれていたようで埋葬品などについては分かっていない。

 来た道をさらに進むと道は二手に分かれる。左前方に見えるのが下野風土記の丘。この道を右へ行けば直接国分寺跡へいける。  本行程では国分寺跡から風土記の丘へ回るのが良いが、ちょうどお昼になったので先に風土記の丘へ行きランチタイムとした。

しもつけ風土記の丘資料館
 今から凡そ1300年前、ここを流れる思川の西側に国府が置かれ、対岸に国分寺・国分尼寺が造立され、この辺りは下野国の政治・文化の中心となっていた。今この辺り一帯は風土記の丘として整備されているが、その中核となるのが「しもつけ風土記の丘資料館」である。
 ここには周辺で発掘された埴輪、武具、生活用具などや、主として奈良から平安時代にかけての各種資料も展示されていて、当時の様子を知ることが出来る。

 資料館前の広場では菊花展が開かれていてこの日が最終日だった。
 これはかつて国分寺に建てられていた七重塔を模して作られたもの。相輪も七輪だったのはお愛嬌。


下野国分寺跡
 聖武天皇の頃疫病が流行り政情は不安であった。そこで天皇は仏教の力による鎮護国家を願い、天平13年(741年)諸国に国分僧寺と国分尼寺を建立するよう宣した。
 正式には「金光明四天王護国之寺」といい、七重塔を建立して「金光明最勝王経」「法華経」の書写各10部と天皇直筆の金字の「金光明最勝王経」を安置した。    

 寺跡の発掘調査の結果建物の基壇などがはっきり残されているのが分かった。
 これは南大門の跡。その先(北)に中門、金堂、講堂と続き、中門と金堂は回廊によって結ばれている。中門の東側、回廊の外に七重塔があり、伽藍配置は東大寺式。
 発掘調査は今も続けられており、建物の復原計画もあるようだ。  

「夜明け前」民俗資料館
 国分寺跡からもと来た道を戻ると右手に天平の丘公園がある。その一角に旧国分寺町(現下野市)にあった江戸時代の民家を移築して、農機具や生活用具などを保存し展示している。
 資料館の南の林の中に3基の五輪塔がある。紫式部の墓といっているのだが。  

防人の道
 天平の丘入口の先(先の資料館の前の広場の前に当たる)、林の中に細い道が続いている。万葉の時代、防人はここを通って西へ向かったのであろうか。所々に防人が歌った歌が掛けられているが、ここでを歌ったものかどうかは分からない。

 防人の道を少し入ると右手が開けて丸い丘がある。さきたま風土記の丘の丸墓山古墳を小さくしたようなものでてっきり円墳だと思って近寄ってみた。
国見山
 丘の麓に嵌め込まれた立派な縁起を見て笑ってしまった。
 「この地、西に急傾し、耕作便ならず、植林また益なき所なり、よって、誇れる町として子孫に残さんと古墳の形を模す。時、小金井区画整理事業の残土あり、運びて谷を埋め、山を盛る。…」
 なお、この塚造成中に地下から500年ほど前の渡来銭が12,441枚出土したという。この内100枚を頂上に埋めその上に筑波から運んだ石を置いた。ここで拍手をすると鳴き竜の音がして、これを「銭成石の鳴き竜」というらしい。各地の伝説もはじめはこんなものか。この後どのように脚色されていくのだろうか。  

下野国分尼寺跡
 元の道に戻って車道を渡ると広場の隣が国分尼寺跡。
 ここもきれいに発掘整備されている。桜の花時には花見客で賑わいそうだ。

国分寺薬師堂
 国分尼寺から東へ進み、最初の角を左へしばらく進むと県道44号線に突き当たる。突き当たりにあるのが国分寺薬師堂。下野国分寺が戦国時代に焼失したためこの地に再建されたという。今は無住。  

五輪塔
 境内薬師堂の前に3基の五輪塔がある。それぞれ聖武天皇、光明皇后、行基のものと伝えられている。
 ここから県道44号線を東へ向かってひたすら歩く。    

日光街道
 姿川を渡り、田園地帯を行く。右手奥に国分寺運動公園を見て、間もなく街中に入ると左に下野市の国分寺庁舎。その前をさらに行くと国道4号線にでる。ここを左に行くとJR自治医大前駅。
 駅から下野薬師寺跡まで30分あまりだが、時間が足りなくなったのでタクシーを利用することにした。  

下野薬師寺歴史館
 下野薬師寺跡に隣接したところに建てられており、発掘調査により出土した瓦や出土遺物、薬師寺に関する文献・資料、発掘により判明した伽藍の模型などを展示している。
 また、ビデオでは寺の歴史や弓削道鏡のことなども分かりやすく解説している。  
下野薬師寺跡
 歴史館の右奥に薬師寺跡がある。7世紀末頃下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと推定されているがはっきりしたことは分からない
 続日本紀によると、聖武天皇の天平勝宝元年(749年)7月13日に諸寺の墾田地の限度が決められ、下野薬師寺は、四天王寺、法隆寺、筑紫観世音寺などとともに500町となっている。また天平宝字5年(761年)には戒壇が置かれ、中央の東大寺、西国の観世音寺、東国の薬師寺と三戒壇のひとつとなっている。これから見て、当時は朝廷の庇護も厚く、格式のあった寺だったのだろう。  
 その後平安期に入って大火等もあって衰退するが、室町時代に足利尊氏が全国に安国寺を建立した際に当寺も安国寺として再興される。しかし元亀元年(1570年)の北条・結城の戦乱で焼失する。
 昭和41年以来発掘調査が続けられており、その結果伽藍配置は南門、中門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並んでおり、中門と金堂が回廊で結ばれているのが分かった。塔は一つだが奈良薬師寺の伽藍配置と同じ。ただ、塔と金堂の間に左右に建物の跡がある。
 現在回廊の一部が当時の姿に復元されている。  

龍興寺
 現在の安国寺の前を通り県道146号線を南へ600mほど行くと左に龍興寺がある。下野薬師寺の別院で、37ヵ寺ある下野薬師寺の末寺の本寺。ここも元亀元年の兵火にあって焼失。現在の本堂は安政7年(1860年)に再建されたもの。
 宝亀元年(770年)弓削道鏡が薬師寺の別当として当寺に入るが、2年後にここで没する。本堂前に道鏡塚がある。

道鏡塚
 弓削道鏡は河内弓削村の出身。葛城山で修行し、東大寺の僧となる。孝謙上皇の病を治したことから、上皇の寵愛を受け政界に進出するようになる。孝謙上皇が重祚して称徳天皇になるとますます勢力を伸ばし、太政大臣から法皇にまで上り詰めた。一時は天皇の座まで狙うが、これは和気清麻呂らの働きによって失 敗する。一説には天皇が道鏡に譲位しようとした、とも言われているが。
 称徳天皇が崩御すると、後ろ盾をなくした道鏡は、反対派であった藤原一族に よって下野薬師寺に左遷され、ここで生涯を終えた。

龍興寺を出てもと来た道を戻り、薬師寺4丁目の交差点を左折し、県道310号線を行くと自治医大前に出る。
 秋の夕日の釣瓶落とし。ずいぶん欲張ったので、途中で真っ暗になってしまった。
 自治医大前からはJR宇都宮線で上野まで1時間25分。    


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