土 浦 城



  別   名  亀城
  城地種類  平城
  天守形態  無し
  築城年代  永享年間(1429〜41)
  築 城 者   若泉三郎
  指   定  県指定史跡
  所 在 地   茨城県土浦市中央1−13
  アクセス   JR常磐線土浦駅から 徒歩15分

 土浦城は、室町時代後期の永享年間(1429〜41)に、この辺りを支配していた小田氏に属する若泉三郎が最初に築いたとされている。

 その後、小田氏の武将であった菅谷勝貞がこれを奪い居城とした。さらに小田城を居城としていた小田氏も北の佐竹氏に追われ、小田城を出て土浦城に入っている。

 徳川家康が関東に移ってから家康の子結城秀康の支配下となるが、慶長6年(1601)秀康が越前に移ると松平信一が3万5千石で初代土浦藩主として入る。以後西尾、朽木、土屋、松平、土屋と続き、同時に城郭としての整備も行われていった。貞享4年(1687)には土屋正直が9万5千石で入り、その後土屋家が10代続いて挙直の時に維新を迎える。

 城は霞ケ浦に注ぐ桜川の河口に築かれた。周囲は低湿地帯であり、しばしば洪水にも見舞われたという。このため幾重にも堀が巡らされ水城の性格を帯びていた。水に囲まれた城は、さながら水に浮かぶ亀のように見えたところから亀城(きじょう)とも呼ばれている。天守は無く、他で見られる三階櫓も無く、東西櫓がその役割を果たしていたのだろう。

 明治6年土浦城は廃城となり、本丸御殿は新治郡役所として、外丸御殿は新治郡裁判所として使用されることになるが、その他の多くの建物は取り壊された。本丸御殿、外丸御殿、東西櫓もその後の火災や台風で消失し、残されたのは太鼓櫓門、霞門、旧前川口門だけとなった。

 平成になってから西櫓(3年)、東櫓(10年)が復元され現在の姿となった。城址は亀城公園として整備され市民の憩いの場となっている。

土浦藩歴代藩主
 松平信一(3万5千石)―信吉(4万石)―西尾忠永(2万石)―忠照―朽木植綱(3万石)―植昌(2万7千石)―土屋数直(4万5千石)―政直―松平信興(2万2千石)―土屋数直(9万5千石)―陳直―篤直―寿直―泰直―英直―寛直―彦直―寅直―挙直


櫓門(上の写真)
 二の丸から本丸に通じる表門。度々改修を加えられてはいるが、本丸御殿や東櫓などほとんどの建物が焼失した、明治17年の火災にも延焼を免れた土浦城の数少ない遺構の一つ。本丸にある現存する櫓門としては関東では唯一のものという。木造本瓦葺き入母屋造りの2階建で、2階に太鼓を置いて時を知らせていたところから太鼓櫓門と呼ばれている。




本丸跡
 二の丸から櫓門を入ると本丸跡。今は広場になっているが、この場所一杯に本丸御殿が建てられていた。明治維新後は新治郡役所として利用されていたが、明治17年に火災により焼失した。




東櫓
 東櫓は本丸の東端の土塁上に建てられていた。もともとは城の防御のための物見の役割を持ったもので、武器蔵としても使用されていたという。明治17年、本丸御殿とともに焼失したが、平成10年に復元された。

 平成23年の東日本大震災では壁が落ちるなど大きな被害を蒙ったが、翌年には修復され、土浦市立博物館の別館として公開されている。内部は土浦城を知るための数々の資料が展示されている。(博物館本館との共通券、大人105円)




西櫓
 東櫓に対して本丸の西端の土塁上に立つのが西櫓。元和6年(1620)の建立と伝えられていたが、昭和24年のキティ台風により大きな被害を受けて解体されたままになっていたのを平成3年に復元された。ここも東日本大震災で被害を受けた。内部は非公開。  




霞門に通じる橋
 JR土浦駅から徒歩で来ると真っ先に城に入る入口。今は土橋になっているが、元は木橋だったらしい。これを渡ると本丸の裏口にあたる霞門。  




霞門
 本丸の裏口に当たる搦手口に置かれた霞門。現存する遺構の一つで貞享元年(1684)に建てられたと伝える。すぐ横に東櫓があり、敵がこちら側から攻め込んできてもしっかりとガードできるようになっている。門の様式は本柱が中心より前方にずれている薬医門。  




旧前川口門
 現在、二の丸の入り口にあった二之門の跡に建てられているが、もとは文久2年(1862)本丸東方の多計郭と町屋を仕切る前川口門として建てられたもので、明治18年に土浦戸長役場、大正9年には等覚寺山門として移築され、昭和56年に現在地に移された。  




本丸の堀
 当初は土塁であったが、今は裾を石垣で固めている。   




本丸南側の堀。  




大手門跡
 城の南方、現在の土浦小学校の東南角の門のあたりに大手門があった。遺構は残っておらず、市指定史跡の石標でそれと分かる。




南門跡
 大手門跡からさらに南へ。城下特有の折れ曲がった道を、地図を頼りにやや広い通りを行くと県道25号線に出る。ここにかつて南門があった。




東光寺境内の土塁
 南門跡に出る手前(東方)に東光寺がある。この境内奥の墓地の隅に南門から続いていた外郭土塁の一部が残っている。墓石や石搭に囲まれて分かりにくいが、市史跡指定の石標でそれと分かる。  




郁文館正門
  郁文館は土浦藩士子弟の為の藩校で、第七代藩主土屋英直によって設立された。当初は土浦城内に建てられたが、天保10年(1839)に現在の場所に移された。明治維新後も洋学校化成館、新治師範学校、土浦等々小学校の校舎として使用されてきたが、昭和10年に正門を残して取り壊された。  正門は昭和62年に解体修理され、今は土浦第一中学校の校門として使用されている。




土浦市立博物館
 土浦市立博物館は土浦城址の北側にに隣接する歴史博物館。「霞ヶ浦に育まれた人々のくらし」を総合テーマに、土浦の歴史と文化や、土屋家旧蔵の品々や資料を展示し紹介している。
 また、隣接する亀城公園内に復元された東櫓も附属展示館として公開している。(入館料は共通券大人105円)
 土浦城址を歩くなら、まずここで土浦のことについてあらかじめ情報を得てから歩きたい。






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