佐 倉 城
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別 名 鹿島城 日本100名城 城地種類 平山城 天守形態 三重四階(現状無) 築城年代 慶長16年(1611) 築 城 者 土井利勝 指 定 市指定史跡 所 在 地 千葉県佐倉市城内町 アクセス 京成電鉄京成佐倉駅から 徒歩20分 JR総武線佐倉駅から 徒歩25分 天文年間、印旛川に注ぐ鹿島川に接する鹿島台地に千葉親胤が築城を始めるが、親胤が暗殺され継いだ邦胤も暗殺されて築城は中断されていた。 その後、徳川家康が江戸に幕府を開いたのに伴い、慶長15年(1610)土井利勝が入封し、本格的な築城を行った。佐倉は江戸を守る要衝の地であったため、歴代藩主は幕府の重職者がなった。このため藩主も頻繁に替わり、明治維新までの間に9家20代が藩主を務めた。 城は石垣を全く使わず、水堀と各曲輪間の空堀は土塁で築かれている。天守閣は三重4階であったが、文化10年(1813)に焼失し、その後再建はされなかった。明治6年の廃城令では存続と決まったものの、佐倉隊が入り、城の建物はすべて取り壊され兵舎が建てられた。 戦後、佐倉市に返還されるが、遺構はきれいに保存されていたので、市ではこれを整備して開放、今では桜の名所としても知られる佐倉城址公園として市民に親しまれている。上の写真はきれいに復元整備された角馬出の空堀。 佐倉藩歴代藩主 土井利勝(老中)―石川忠総―松平家信―康信―堀田正盛(老中)―正信―松平乗久―大久保忠朝(老中)―戸田忠昌(老中)―忠真―稲葉正通(老中)―正知―松平乗邑(老中)―乗祐―堀田正亮(老中)―正順―正時―正愛―正篤(老中・後正睦)―正倫 |
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姥が池 馬出の空堀を見て駐車場の南の坂道を下ると姥ヶ池、その先に菖蒲田がある。 ここには、天保の昔、池の周りで家老の姫をお守していた姥が誤って姫を池に落としてしまい、姫はそのまま池の底に沈んでしまいましたので、困った姥は責任を取って自身も身を投げたという悲しい伝説がある。それ以後人々はこの池を「姥ヶ池」と呼ぶようになったという。 |
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大手門跡 城の東端にある惣曲輪の表門。もとは4間×10間(後に4間×8間に)の2階造りの門があった。ここから三の門まで延びる広小路の両側には重臣の屋敷や三の丸御殿などがあった。今は広小路の北側に歴博くらしの植物園と佐倉中学校、南側に佐倉東高校がある。 |
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空堀 佐倉城は、石垣を組まずに土塁で堀や曲輪を築いている。三の丸の大きな空堀。 |
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南出丸跡を望む 三の丸から南に下ると下りついたところに本丸を南から西へ囲むように水堀がある。奥に見えるのは出丸跡。 |
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帯曲輪 水堀と出丸の上にある帯曲輪。本丸はこの上にある。堀を渡ってくる敵をここで防ぐために造られた。 |
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三の丸跡 この辺り三の門があったところ。3間×6間2階造りの門で、作事諸道具の倉庫としても利用されていた。入ったところが三ノ丸で、重臣の屋敷があったところ。 |
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堀田正睦像 堀田正睦は、下総佐倉藩の第5代藩主として藩政改革を行う傍ら蘭学を奨励し、佐倉順天堂を開く。幕政にあっては、安政2年(1855)に老中首座となり、攘夷が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには開国が必要と説き、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結んだことなどで知られる。 |
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一の門跡 本丸に出入する門で、左右の石で囲っている上に、4間×8間2階造りの門が建っていた。2階は弓倉として使われていたらしい。右から奥への繁みは土塁で本丸を囲んでいる。 |
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銅櫓跡 一の門を入って右正面本丸西北隅に当たるところにあった。6間四方の2階造りで、江戸城にあったものを土井利勝が将軍より拝領して移築したという。もとは3階造りで大田道灌が造ったものと伝えられている。小天守の役割も担っていたらしい。 |
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本丸跡 一の門を入ったところが本丸。中央に本丸御殿。それを囲むように天守閣、銅櫓、角櫓が建てられていた。周囲は土塁が築かれ、その上に板塀があったらしい。 |
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天守跡 天守台のように見えるが、これは土塁。天守の大部分は手前の平地に置き、一部を土塁上に建てたので本丸内からは4階だが、外からは3階に見えたという。 |
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