岡 山 城



  別  名  烏城 金烏城   日本100名城
  城地種類  平山城
  天守形態  5層6階 望楼型 複合式
  築城年代  正平年間(1346〜70) 慶長2年(1597)
  築 城 者  上神高直 宇喜多秀家
  指  定  国指定史跡 重要文化財(櫓2)
  所 在 地  岡山市北区丸の内2−3−1
  アクセス  JR岡山駅から徒歩20分

   岡山城は、旭川に面した丘陵地に築かれた平山城で、旭川を天然の堀としている。

 この地に最初に城砦を築いたのは、南北朝時代の正平年間(1346〜70)に、南朝方の上神高直と伝えられている。大永年間(1521〜1527)には、備前守護代の松田氏に属する金光備前の居城となるが、備前の子宗高の時に、宇喜多直家がこれを奪い居城とする。

 天正元(1573)年。直家は新たに東方の地岡山に本丸を築き、それまでの本丸は二の丸とするなど城の大改修を行った。

 直家を継いだ秀家は豊臣政権の五大老となったことで、57万4千石の大名にふさわしい城造りに着手した。天正18(1590)年に着手し、慶長2(1597)年5層6階の天守を持つ岡山城が完成した。

 だが、その3年後の慶長5(1600)年、東西を二分する関ケ原の戦いが始まり、宇喜多秀家は西軍に参加するが、西軍の敗北により秀家は薩摩に逃亡するも、のち八丈島に流される。

 替わって入った小早川秀秋が新たに城割をするが、秀秋はわずか2年後に病死する。その子はまだ幼少であったため姫路城の池田輝政の五男忠継が城主となる。寛永9(1632)年に国替えがあり、鳥取の池田光政が入城し、以降池田家が10代続き明治維新を迎える。

 天守は明治の廃城令にも壊されず残るが、昭和20年6月29日の空襲で焼失する。そして、昭和41年に鉄筋コンクリート造りで外観復元された。



内下馬門枡形
 本丸を囲む堀となっている旭川に架かる目安橋を渡ると巨石で築かれた四角い広場がある。内下馬門枡形と呼ばれ、本丸の正面入り口にあたる城門のあったところである。
 枡形とは、城の入り口に造られた文字通り枡形の広場で、城内に通じる内門の他にもう一つ外門を造り、虎口を二重にして敵の侵入に備えた。  




中の段石垣と不明門
 内下馬門跡を通ると下の段。ここを右へ中の段の石垣下をゆく。上に見えるのが不明門。  




鉄門跡
 不明門の下から左上に上がっていくと鉄門跡がある。鉄門とは、敵の来襲に備えて、木造の扉の上に鉄板を貼り付けより堅固なものにした扉。このような扉は重量感と共に城に格式を持たせる効果もあった。
 ここを通ると中の段で右手に不明門がある。  




不明門
 本丸本段に入る門。儀式のとき以外は開けられなかったのでこの名がある。天守と同じく昭和41年に再建された。  




天守閣
 5層6階の天守閣は、慶長2(1597)年宇喜多秀家によって建てられたが、昭和20年の戦火により焼失。昭和41年に鉄筋コンクリート造りで外観復元された。
 大きな屋根の2階部分の上に3・4階部分を置き、その上に5・6階部分となる望楼を置き、左に塩蔵を併設した複合式望楼型天守である。外壁下見板が黒く塗られていたので、白亜の姫路城が白鷺城と言われたのに対し、岡山城は烏城と呼ばれていた。
 現在は正面の石垣のところ(天守の地階にあたる)が入り口になっているが、当初は左の塩倉が入り口だったらしい。

 手前の広場は本段御殿(藩主の邸)のあったところ。    




 天守閣内部は資料館になっていて、1階は備前焼・着付けの体験コーナー、土産物店・飲食店がある。2階は城主が生活していた「城主の間」と池田氏時代の紹介。3〜5階は宇喜多・小早川時代の紹介。戦前の岡山城の姿を古写真やパネル・出土品などで紹介している。
 最上階は展望階で、岡山市街が一望でき、眼下に岡山藩4代藩主池田綱政が築いた後楽園が望める。  




六十一雁木上門
 本殿から直接下段に通じる門。この下にかつて61段の石段があったことからこう呼ばれていた。石段の下には櫓門(下門)があったが、両門とも明治になって取り壊され、上門だけ昭和41年に木造で復元された。    




本丸中の段表向御殿跡
 本丸中の段の広場には政庁にあたる表向御殿があり、ここで藩の政務が行われていた。現在白線で部屋の間取りなど表示してあるので、その様子がよく分かる。  




築城時の石垣
 慶長2(1597)年、宇喜多秀家は城の大改修を完成させるが、その当時の石垣の一部が今も保存されている。  


 


泉水
 中の段表書院の中庭にあった泉水が復元されている。中の島に湧水口を設け、近くの井戸から備前焼の土管を通して給水していたという。なお、発掘調査で出土した遺構は地下に保存されているとのこと。




月見櫓
 月見櫓とは、城中にあって月見の宴を楽しむために建てられた櫓。これは元和・寛永年間(1615〜1632)に第5代城主池田忠勝によって建てられたものという。第2次世界大戦の戦火から免れた唯一の建物で、国重文に指定されている。
 櫓は本丸中ノ段の北西隅に建てられていることや、内部は武器庫となっており、銃眼や石落としなどの設備があることから見て、本丸中ノ段北西部を守護する役割も担っていたものと思われる。




廊下門
 本丸中の段と下の段の間にある門。門の上は中の段の表書院(右手)から本段の奥御殿(左手)とを結ぶ廊下になっていた。




石山城本丸跡
 廊下橋を出て西へ二の丸に向かう。今の本丸の西にあるので西の丸ともいう。宇喜多直家が入って城の大改修を行い、今の岡山城が築城されるまでは、ここが岡山城の前身石山城の本丸であった。




西の丸西手櫓
 平成13年に閉校となった内山下小学校の校庭の隅に西手櫓がある。2階櫓で、内部は武器や食料の保管場所ではなかったかと言われている。同時に2階には格子出窓、1階には石落としを設けるなど、二の丸の防備を兼ねていたと思われる。
 岡山城には34の櫓があったそうだが、現在この西手櫓と本丸中の段の月見櫓のみ残されている。共に国の重要文化財に指定されている。  


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