水 戸 城



  別  名  馬場城
  城の形態  連郭式の平山城
  天守形態  無
  築城年代  建久年間(1190〜1198)
  築 城 者  馬場資幹
  指  定  国指定特別史跡
  所 在 地  水戸市三の丸
  アクセス  JR水戸駅から徒歩10分

   水戸城は、今のJR常磐線水戸駅の北に横たわる細長い台地上に築かれた。北側には那珂川が流れ、南側は千波湖が水をたたえる要害堅固なところである。

 ここに初めて城を築いたのは平国香の子孫で常陸大掾の平資幹といわれている。建久年間(1190〜1198)のことで、資幹は地名を冠して馬場氏を名乗り、城を馬場城と称した。その後度々の争いがあり、勝者側の江戸氏、次いで佐竹氏が入ったが、佐竹氏は関ケ原の戦いで、東西どちらにも与しなかったので、慶長7(1602)年秋田に転封となる。

 佐竹氏の転封後、徳川家康の五男信吉、十男頼将(頼宜)、十一男頼房が相次いで入封する。この頼房が12万石の水戸藩初代藩主となり、以後35万石の十一代昭武で幕末を迎える。

 城は文禄2(1593)年、佐竹義宣が入ったときに大改修を行い、細長い台地を堀で仕切り、東端を本丸、そこから西へ二の丸、三の丸と続く連郭式とした。
 さらに、徳川頼房が入った時にそれまでの本丸を東二の丸(今の第1高校の校庭)、二の丸を本丸(今の第1高校の校舎のある所)、三の丸を二の丸(今の第3高校、第2中学、茨大附小のある所)とし、その西に新たに三の丸(今の三の丸小学校、弘道館のある所)を築いた。



三の丸空堀
 駅前の広場から国道50号線を渡り左へ少し行くと大きな銀杏の木がある。そこから右へ旧銀杏坂を行くと三の丸小学校に突き当たる。元弘道館の医館のあったところ。 ここを左へ行き常陽郷土會館の先を右折すると、先に三の丸の大きな空堀がある。
 水戸城の特徴は、石垣を全く使わず、土塁と空堀によって築かれている点である。正に土から成る城である。建物は取り壊しや戦火でほとんど失っているが、土塁や堀は随所に残されており、その規模の壮大さをうかがい知ることができる。
 三の丸西端にあり、左が三の丸、右が現在裁判所があるが、当時は武家屋敷が広がっていた。  




北柵御門(復元)
 右に空堀を見て先に進み突き当たると正面が東武館。右へ行くと北柵御門がある。
 弘道館の北と南に設けられた門のうち、北側に設けられた門。ここから出入りできるのは教員と役人だけで、学生は正面向かって右側の通用門から出入りしていた。  




土塁(復元)
 北柵御門の脇から中に入る。
 弘道館建設の時に三の丸の改修を行い、弘道館の周囲に堀と土塁が築かれた。その土塁の一部が現存しており、それをもとに部分的に復元されている。  




弘道館正門
 天保12(1841)年の創設時に建てられた、総欅造り本瓦葺の四脚門。藩主の来館とt諸儀式が行われるときにのみ開扉されたという。  幕末水戸藩では、尊攘派の天狗党と反対派の諸生党が対立し、内乱が起こっていた。明治元(1868)年の「弘道館の戦い」では、弘道館を占拠した佐幕派の諸生党を天狗党が攻め、多数の死者と弘道館の大半の建物を焼失した。門柱に残る弾痕から戦の激しさがうかがえる。  




弘道館玄関
 弘道館は、藩政改革の重要施策の一つとして、9代藩主斉昭が天保12(1841)年に三の丸に創設した藩校である。
 ここでは、兵学、漢学、国学、数学、天文学、地理学、医学などを教えていた。儒学者藤田東湖(藩政の改革を推進した)はここで水戸学を講義した。
 広い敷地内には、文館、武館、医学館、天文台、孔子廟、八卦堂の建物や馬場などが整備されていたが、明治元年の弘道館の戦いと言われている藩内抗争や昭和20年の戦災で大半が焼失した。  現在正門の他、本格的な書院造の正庁、至善堂が残っている。   




正庁 正席の間
 正庁は弘道館の中心となる建物で、正席の間は公式の行事などが行われる場所。藩主が臨席しての文武の試験もここで行われたという。    




大手橋と大手門(復元)
 弘道館を出て向正面にある大手橋で三の丸から二の丸に渡ると、城の正門にあたる大手門。
 当初大手口は東端の常光寺口であったが、佐竹氏の改修の時に現在地に移し、橋と門を築いた。門は明治維新時に解体されたが、令和元年に古写真や絵図資料をもとに復元された。木造2階建ての入母屋造りの瓦屋根。高さ13mの立派な門である。  




二の丸空堀
 大手橋から見下ろした二の丸空堀。深く両サイドは急峻である。現在堀底を県道232号線が通っている。  




二の丸空堀から見上げた左に大手橋と右に大手門。

 


彰考館跡
 大手門を入ると二の丸。奥へ進むと左に彰考館跡がある。
 彰考館は、水戸藩主徳川光圀がわが国の歴史書「大日本史」を編纂するために設けた史局である。はじめ江戸の藩邸内に置かれたが、光圀隠居と共に当地に移され明治維新まで編纂事業が続けられた。維新後は偕楽園に移し、徳川家の事業として継続され、明治39(1906)年に完成したという。
 ここは今、水戸市立第二中学校になっている。




二の丸角櫓への道
 彰考館跡と道路を隔てて南側が茨大付属小学校。その東隣に水戸第三 高校がある。その間に細い通路があり、そこを350mほど進むと復元なったばかりの二の丸角櫓が建つ。
 なお、このすぐ左手(三高校舎のある辺り)に御三階櫓があった。天守閣を持たない水戸城にあっては、この三階櫓が天守代わりとなっていた。従って天守台は無く地面から直接建てられていたので、一層部を高くして内部を3階造りとしていた。外観は3階だが内部は5階となっていた。徳川御三家の城だが、名古屋城・和歌山城に比べて質素な城である。その分立派な弘道館を創るなど学問に力を入れていたのは水戸藩らしい、と思う。




二の丸角櫓
 水戸城には4カ所の角櫓があった。下の丸(東二の丸)東南隅、本丸南西角と北西角、二の丸北西角。このうち二の丸角櫓が令和2年10月に復元された。木造二重二階建。右に北多聞櫓、左に東多聞櫓を併設する。




本丸堀
 二の丸角櫓からもとの道を入り口まで戻り、東へ進み本城橋で本丸堀を渡ると本丸。二の丸空堀同様急峻な空堀で、今は堀底をJR水郡線が走っている。




本城橋詰門枡形跡
 本城橋を渡ったところに本丸の玄関口にあたる橋詰門があった。今も枡形の土塁がはっきりと残っている。門は薬医門という形式の門で、廃城の時に払い下げられ、市内の祇園寺の山門として利用していたが、昭和56年にもとの本丸に移築保存されることになった。
 ここは第三高校内の校庭であるが、史跡見学者の立ち入りは許されている。




薬医門
 薬医門とは、門の形式で、本柱を切妻屋根の中心部から前方に少しずらして立てるもので、このため本柱の後ろにそれぞれ控え柱を立てて屋根を支えている。
 寺門として多く使われているが、元来は城門の一種で、「矢喰い」が語源とも言われている。  




義公生誕の地
 本城橋を渡り返し、第三高校の手前の坂を下っていく。国道51号線に出て右へ行くと三の丸2丁目の交差点。
 この手前左手に水戸黄門神社がある。小さな祠だが鳥居は立派。水戸と言えば黄門さんと言われるほど親しまれている、その黄門さんこと徳川光圀のここは生誕地という。
 水戸駅はすぐ先。  




二の丸角櫓
 三の丸2丁目交差点付近から見上げた二の丸角櫓。天守閣を持たない水戸城は、城下から眺めたときの偉容を意識して、4つある角櫓のうち3つ(下の丸(東二の丸)東南角、本丸南西角、二の丸南西角)を南側に建てたと考えられている。  


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