郡 山 城



  別  名  無   続日本100名城
  城地種類  平城
  天守形態  不明
  築城年代  天正8(1580)年 天正13(1585)年
  築 城 者  筒井順慶 豊臣秀長
  指  定  県指定史跡
  所 在 地  大和郡山市
  アクセス  近鉄大和郡山駅から徒歩10分

   郡山城は、もと郡山衆の居館のあったところ。天正8(1580)年、筒井順慶は織田信長の後盾を得て大和国を平定し当地に入城、城郭を拡張して郡山城を築いた。天正11(1583)年、天守閣は完成するが、翌年順慶は死去。定次が後を継ぐが、翌天正13年国替えとなり、豊臣秀長が100万石で入城する。秀長は100万石に相応しい城にしようと拡張するが、天正19(1591)年死去,、秀保が継ぐ。

 文禄4(1595)年、増田長盛が入城するが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで敗れ、その後城主は次々と替わる。享保9(1724)年、郡山藩の藩祖として柳沢吉保の長男吉里が入城し、以後代々柳沢氏が城主を務め、6代保申の時に幕末を迎える。

 維新後、城は明治6(1873)年に売却され解体された。その後市民の強い願いもあって、昭和58(1983)年に追手門、59年に追手東隅櫓、62年に追手向櫓がそれぞれ再建された。



鉄門跡
   近鉄郡山駅からほぼ線路に沿って北へ向かう。およそ450mほどで左へ踏切を渡るとその先に鉄門跡がある。駅からここまで10分弱。  鉄門(くろがねもん)は、三の丸から二の丸に入る門。松平忠明の時に伏見城から移したと言われているが、現在石垣のみ残っている。追手門へはここから堀に沿って北へ向かう。    




追手門
 城の正面玄関(大手口)にあるのが追手門。ここを入ると毘沙門郭(二の丸)。その西側に本丸堀を隔てて本丸がある。昭和58(1983)年に市民の寄付により再建された。  




追手東隅櫓
 追手門を入った右奥が常盤廓。その東南隅にあるのが追手門東隅櫓。別名太鼓櫓ともいわれ、定刻に太鼓を鳴らして城下に時を知らせていたという。追手門に次いで、昭和59(1984)年に再建された。  




追手東隅櫓と多門櫓
 多門櫓は各櫓を結ぶ廊下状の櫓で、本丸、毘沙門郭、常盤郭を囲むように石垣上に建てられていた。現在毘沙門郭、常盤郭に一部再建されている。  




柳澤文庫
 戻って、毘沙門郭の南端に向かうと柳澤文庫がある。
 昭和36(1961)年、柳澤保承(1888〜1960)と地元有志によって地方史誌専門図書館として開設された。
 同文庫は柳澤家から寄贈された柳澤家歴代藩主の書画や和歌、俳句などの作品や郡山藩の公用記録をはじめとする藩政史料などの古文書・古典籍のほか、奈良県内および柳澤家関連地域の自治体史・歴史・文学系を中心とした一般書を所蔵し、公開している。  




極楽橋跡
 本丸と毘沙門郭の間には木橋が架けられていた。橋を渡った本丸側には3×10間で、追手門と同じ位の大きさの極楽橋門が建てられていた。橋は現在架橋工事中。   




柳澤神社
 本丸跡に建てられた柳澤神社。享保9(1724)年、柳澤吉里が国替えで、甲府から15万石で入城。以来明治維新まで6代140余年に亘って郡山藩を治めた。維新後の明治13(1880)年、それまでの郡山繁栄の功績を称えるとともに、今後の繁栄と安寧・幸福を祈願して創建された。祭神は初代吉里の父柳澤吉保である。  




厩郭側から見た本丸と天守台の石垣。石垣は野面積みである。  




天守台
 本丸の北端に天守台が設けられている。上面16×18m。基底部25×25mの天守台に天守閣が建てられていたが、資料が無く実態が分からないという。
 石垣を造るにあたっては、急ぎ築城する必要があったのと、近辺に石材が少なかったことから、石塔部材や石仏・墓石なども集められた。現在分かっているだけでも、表面だけで750余りあるという。  




さかさ地蔵
 天守台の石垣に使われた石造地蔵仏像。頭部が下になっている。


 


馬場先門跡





竹林門跡
 本丸南側に本丸と二の丸を結ぶ台所橋という木橋があった。橋を渡った本丸側には台所橋門という櫓門があった。柳澤氏入城以来竹林門と改称された。




二の丸表門跡
 この内部が二の丸で、二の丸御殿が建てられていた。現在県立郡山高校の敷地となっている。




現地案内板より  


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