姫 路 城



  別   吊  白鷺城   日本100吊城
  城地種類  平山城
  天守形態  望楼型 五重六階地下一階 木造・現存
  築城年代  天正8(1580)年 慶長6(1601)年 
  築 城 者   羽柴秀吉 池田輝政
  指   定  国指定特別史跡 国宝8棟、国重文74棟
  所 在 地   姫路市本町68
  アクセス   JR姫路駅から 徒歩20分

   姫路城は元弘3(1333)年、赤松則村(円心)が標高50mの姫山に砦を築いたのが始まりとされている。正平元(1346)年には、則村の次男貞範が本格的な城に改修した。

 嘉吉の乱で城は山吊氏に奪われるが、応仁の乱で赤松政則が奪還し、一族の小寺氏黒田氏と継がれていった。

 天正8(1580)年の羽柴秀吉中国攻めの時に黒田孝高は城を秀吉に献上。この時秀吉は三層の天守閣を築いた。

 下って関が原での戦いに勝利した家康は、姫路城を西国への要として重視し、外様ながら池田輝政を城主として入れた。輝政はこれまでの建物を全部取り除き、姫山に並ぶ鷺山をもならして、慶長6(1601)年から9年の歳月をかけて五層の天守と櫓群を建て、今見られるような城郭とした。迷路のような動線と無数の狭間を見ると、城が戦のための施設であるということが実感できる。

 輝政死後池田氏は鳥取に転封、替わって入ったのが本多忠政。後、忠政の嫡子忠刻が家康の孫娘千姫を娶るが、この時新たに西の丸が築造された。

 その後城主は目まぐるしく替わるが、寛延2(1749)年酒井氏が12万石で入城し、10代100余年続いて幕末を迎える。

 姫路城は砦時代から先の大戦まで一度も戦火に遭わずに来た。明治の廃城令でも存続と決まり、その美しい姿が残されることになった。昭和31年から8年かけて昭和の大修理が、平成21年からは平成の修理が行われ、昨年(平成27年)完了し白亜の城が見られるようになった。

 姫路城は、真っ白な漆喰と天守から連なる櫓群の姿形が、鷺が羽を広げたように見えるということから、別吊白鷺城とも呼ばれている。昭和26年に現国宝に指定され、平成5年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。




大手門
 内濠に架かる桜門橋を渡ると大手門(桜門)。姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高く厳重な門だったという。現在大手門と呼んでいる高麗門は昭和13(1938)年に完成したもの。

 大手門を入ると広場になっていて正面奥に白亜の天守が聳えている。ここは三の丸の東半分で、広い庭園を伴った向御屋敷のあったところ。
 西側の一段高くなったところが藩主の住い御居屋敷のあったところで、藩政の中枢部であった。  


 


菱の門(国重文)
 左奥の入城口から入ると最初に現れるのが菱の門。三の丸から二の丸に入る大手筋の玄関口にあたる。2階に黒漆喰に飾り金具のついた格子窓と華頭窓を設けるなど桃山風の華麗な櫓門で、正門にふさわしい造りとなっている。坂を上ってくると正面と左右が土塀で、多くの狭間から狙われ、攻めづらい門である。左右の土塀と共に国重文。

 姫路城は、守りに強い城である。本丸に続く道も螺旋状に曲折しており、幾つもの門を潜らなければならない。時には天守閣を見失うこともあり、左右の土塀の狭間から狙い撃ちされ、進むのは容易でない。  




いの門(国重文)
 菱の門を潜って真直ぐ行くと脇戸付の高麗門の、いの門。ここから、い・ろ・は・に・ほ、と大手筋の門が続く。    




はの門(国重文)
 天守を正面に見ながら坂を上ると「はの門《がある。この門の二階から菱の門を見通せたところから、緊急時の監視所にもなっていたようだ。
 はの門を潜って右へ天守に向かって進むと道は石垣に突き当たり、180度折り返して「にの門《に向かうようになり、天守から遠ざかってしまう。この時正面から受けていた攻撃が背後と側面から受けるようになる。  




にの門(国重文)
 にの門の中は薄暗い。天井が低く、入ってくる敵兵に対し、槍や鉄砲で攻撃しやすい構造になっている。      




油壁
 城の防御機能の一つとして「折れ《がある。これは、門や壁によって屈曲した道を造り、容易に天守に近付けないようにしたもので、ここでは「油壁《を配置することでその「折れ《を構築している。
 「にの門《を入るとすぐ左に「水の一門《があるが、間にこの壁があるので見えない。大回りすることになる。

 油壁とは、型枠を組んで、その内側に粘土と砂を交互に撞き固めていく工法で、堅固な壁になるという。元はこの上に白漆喰が塗られていた。姫路城ではここだけに残っている。    




姥が石
 乾小天守北側石垣の上方に欠けた石臼が間詰め石として積まれている。これには次のような伝説がある。
 羽柴秀吉が姫路城を築くとき、石集めに苦労していたが、そのことを聞いた、城下で餅を焼いて売っていた貧しい老婆が使っていた石臼を寄付したという。秀吉は喜んでこの石臼を石垣に使ったが、その評判はすぐに広まり、国中から多くの石が集まり、築城工事は急速に進み、立派に完成したという。
 なお、この石垣は、後の池田輝政が築いたもの。      




水の六門
 幾つもの門を潜り、曲折した道を上って、本丸をほぼ半周したところで西小天守地階の入り口「水の六門《に着く。ここから大天守入り口の地階に通じている。      




大天守内部
 武者走りの壁には多くの武器掛けがある。天守が武器庫の役割もはたしていた。    




階段
 現存天守の階段はいずれも急だ。攻撃に備えてのものだろうが、足腰の弱い老人には上り下りが大変だ。    




刑部明神
 天守最上階(六階)に鎮座する刑部明神。天守の建つ姫山の地主神として、当初は天守の北東、裏口を固める「との二門《近くの地上にあったものを、後に姫路城の守り神として天守内に遷された。

 六階は、五階までの薄暗さから一変して窓も大きく、明るい書院風の造りとなっている。


 


天守閣最上階からの遠望
 眼下には西の丸を望む。手前の化粧櫓から長局を経て南端のカの櫓まで櫓群が続き、廊下で結ばれている。その長さおよそ230m余り。百間廊下と呼ばれている。




備前丸から見上げる天守閣
 大天守は五重六階、地下一階の望楼型天守。天守台の高さは14.8m。その上に31.5mの大天守が建つ。左の西小天守から乾小天守、東小天守と渡櫓で結ばれた連立式天守となっている。大天守各層の逓減率と、千鳥破風、入母屋破風、軒唐破風の組み合わせは見事な美しさ。大きさの異なる3小天守とのバランスも良く、どこから見てもほれぼれする。

 備前丸は、池田輝政時代の御殿があったところ。明治15年の火災で焼失した。  




備前門(国重文)
 本丸(備前丸)の出入り口にある切妻の櫓門。右の大きな石は石棺。石上足のため、このようなものまで利用されていた。




りの門(国重文)と太鼓櫓(国重文)
 備前門を出て帯郭を下るとりの門。二の丸腰曲輪(上山里)の出入り口となる脇戸付高麗門。右が二の丸を守る太鼓櫓。




ぬの門(国重文)
 上山里曲輪の北西隅にある門。黒鉄板張りの門の上に二階櫓を設けている。姫路城で唯一二階櫓門で、城内最大の門である。  




扇の勾配
 上に行くほど急な勾配となっており、敵が容易に登れないように工夫された石垣。 扇を広げたような美しい曲線を描いているところから扇の勾配と呼ばれている。




西の丸への道
 菱の門から左へ坂道を上がっていくと西の丸に至る。ここは西の丸南門のあったところ。番所付きの高麗門だったという。石段の下にある四角い石が礎石。  




西の丸
 元和4(1618)年本多忠政が鷺山に築造したもので、忠政の嫡男忠刻と、忠刻のもとに再嫁した千姫の居所となった。  




長局(百間廊下)
 西の丸の西側は数棟の櫓や渡り櫓、長局(侍女の居所)とこれらを繋ぐ百間廊下と呼ばれる建物群によって囲まれていた。




 徳川2代将軍秀忠の娘千姫は、7歳の時豊臣秀頼のもとに輿入れするが、大坂夏の陣で秀頼は自刃する。千姫は、炎上する大阪城から救出され、その後姫路城主であった本多忠政の嫡男忠刻に再嫁し、この西の丸で10年間過ごした。
 千姫30歳の時、夫忠刻は31歳の若さで病に倒れる。千姫は江戸に戻り、髪をおろして「天樹院《と号し、竹橋御殿で70年の生涯を閉じたという。



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