彦 根 城



  別   名  金亀城   日本100名城
  城地種類  平山城
  天守形態  望楼型 三重三階 木造・現存
  築城年代  慶長9(1604)年 
  築 城 者   井伊直継
  指   定  国指定特別史跡 国指定名勝 国宝1件(天守)、国重文5件
  所 在 地   彦根市金亀町1−1
  アクセス   JR彦根駅から 徒歩13分

   慶長5(1600)年の関ケ原の合戦で戦功のあった井伊直政は、徳川家康より近江18万石を与えられた。
 直政は、はじめ石田三成の居城であった佐和山城に入り、直ちに新城を計画するが2年後死去。嫡男直継は幼少であったため、遺臣木俣守勝がこれを受け継ぎ、現在の地に彦根城の築城を始めた。

 この築城は家康が命じたもの。関ケ原戦後もなお力を残す豊臣家や西国諸大名に対する警戒のためで、姫路城、名古屋城などと共に大阪包囲網を敷いた。  築城工事は、慶長8(1603)年に始められたが、この工事に当たって家康は7ヵ国12大名に手伝いを命じ、幕府からも3名の公儀奉行を派遣するなど、いわゆる天下普請で行われた。

 慶長12(1607)年、三重三階の天守が完成。はじめ直継が入城するが、直継は病弱だったこともあって安中藩に移封、直継の異母弟直孝が2代目彦根藩主となって入る(3代目とするものもある)。

 井伊家はその後代々徳川幕府の老中や大老を務め、14代(16代とするものもある)直憲の時に明治維新を迎える。なお開国を進めていた13代(15代とするものもある)直弼が暗殺された桜田門外の変はあまりにも有名。

 なお、天守はその後の幾たびかの戦争や先の大戦の戦災から逃れ、創建当時の姿を伝える数少ない天守の一つである。




佐和口多門櫓(国重文)
 彦根駅から西へ10分ほどで護国神社に突き当たる。ここを左から回り込み中堀を渡ると佐和口多門櫓。佐和口は表門に通じる入り口として、大手の京橋口とともに重要な位置を占めていた。

   佐和口を入ると正面が内堀。内堀に沿って左へ進み次の橋で内堀を渡ったところが表門。  


 


廊下橋
 表門から上ってくる表門山道と大手門からの大手山道がこの堀切で合流する。橋を潜って左へ回り込むと鐘の丸。そこから橋を渡って太鼓丸に通じる。現在は木橋だが当初は屋根付きの廊下橋だった。危急の時にはこの橋を壊し攻め手を防ぐ仕掛けになっていたという。
 また天守への坂道も、石段の角度や踏み幅が不規則で歩きにくくなっているが、これも攻め手が一気に登れないようにと工夫されたものである。




天秤櫓(国重文)
 堀切に架かる橋を渡ると天秤櫓。中央に門を開け、左右両端に2階の櫓を設けて「コ」の字形になっている。左右対称に見えるところから天秤櫓と言われているが、良く見ると左右2階櫓の棟の方向が異なることや、窓の数〈左3、右2〉に違いがあることが分かる。
 この天秤櫓は、築城後しばらくして長浜城の大手門を移築したものと伝えられている。    




時報鐘
 太鼓門手前の左高台にある時報鐘。弘化元(1844)年に12代藩主井伊直亮が造らせたもので、以来城下町に時を知らせてきた鐘。今も6時から18時まで3時間おきに撞き鳴らしている。
 築城当初は、鐘の丸に設置されていたが、より遠くまで音が届くようにと現在地に移されたと伝える。  




太鼓門櫓(国重文)
 時報鐘の先右手に見えるのが本丸への最後の門である太鼓門櫓。ここを潜ると本丸で、三重三階の天守が聳えている。
 門の上の廊下の背面は開け放たれている。これは中の太鼓の音が良く通るようにするためとも言われている。
 この門も築城時他城の城門を縮小して移築したもの。    




天守(国宝)
 太鼓門を潜ると本丸で中央に天守が建つ。創建時の姿を今に伝える数少ない天守の一つで、国宝に指定されている。
 天守築造にあたっては、大津城の四重五階の天守を取り壊し、その建材を使って三重三階の天守にしたいう。そのためか小振りの割にはどっしりとしており、多くの切妻破風、入母屋破風、唐破風もそれぞれが大きく、さらに2・3階に花頭窓、3階に高欄付きの縁をつけるなど、外観は大変華麗な天守となっている。

 天守への入り口は2カ所設けられている。一つは正面の小さな玄関口から天守台の地下室を経て1階に入るもの。もう一つは右手の多門櫓から付櫓を経て天守に至るもの。  




付櫓の内部
 多門櫓から付櫓に入り、この階段を上がって天守1階に入る。    




天守3階内部
 天守の天井には天井板が貼られず、梁の材木がむき出しになっている。材も不揃いで、大津城の材を利用したということがよく分かる。    




天守最上階から眺めた佐和山城址


 


西の丸三重櫓(国重文)
 本丸の北に隣接する西の丸の西北隅の三重櫓。西側の搦手からの攻撃に備えて建てられた。東と南に1階の続櫓が付けられている。
 堀切を挟んでさらに北の山崎曲輪にも三重櫓があったが、明治初年に取り壊されたという。  




西の丸下の堀切
 西の丸から山崎曲輪に延びる尾根を切り取った堀切。搦手からの攻め手を二の丸と出曲輪から挟撃できるようになっている。二の丸から橋を渡ったところが出曲輪。その先が山崎曲輪に通じている。




堀切から見上げる西の丸三重櫓
 




表御殿
 内堀を渡り表門を入った右手に彦根城博物館がある。もと表御殿のあったところで、明治に入って取り壊されたものを復元して彦根城博物館としている。
 表御殿は、藩主の住いであると同時に、藩庁として藩主や役人の政務の場でもあった。




 復元された表御殿のうち玄関棟、御広間棟、御書院棟など前半部は博物館の展示室などになっている。
 奥座敷棟や御座の御間棟は当時の姿に復元されている。藩主の政務の合間の休み所。庭園を眺めながらくつろいでいたと思われる。




御殿庭園
 発掘により復元された庭園。池を中心とした池泉式で、藩主の居間である御座の御間から観賞できるようになっている。絵図に描かれた状況から見て江戸後期の作庭と推定されている。  




馬屋(国重文)
 佐和口から入るとすぐ左手に馬屋がある。L字形の建物で、内部は21の馬立場と馬繋場に仕切られており、藩主の馬他21頭の馬が収容できるようになっていた。
 このように大規模の馬屋は他に例が見られず、赤備えで知られる彦根藩が戦のない時代になっても武術の鍛錬を怠らず、特に馬術に力を入れていたことが伺われる。  




二の丸佐和口の多門櫓
 中堀に面した佐和口多門櫓。佐和口より左奥が国重文の多門櫓。手前佐和口から右側の多門櫓は昭和35年に復元したもの。




埋木舎
 幕末の大老井伊直弼(彦根藩第13代藩主)は5歳で母を、17歳で父直中(第11代藩主・隠居中)を亡くした後300俵の捨扶持でここに入る。以後藩主になるまでの15年間不遇の時を過ごしながら学問や武芸に打ち込んだという。
 埋木舎は直弼自身の命名というが、この時の思いを込めたものだろう。中堀に面したところにある。 




玄宮園からの天守
 かつて彦根藩の下屋敷であったところ。現在西側建物のある部分を楽々園、東側の庭園を玄宮園と言って公開している。
 庭園は池を中心に中の島や入江を配し、そこに橋を架けるなど変化に富んだ造りの池泉回遊式庭園で、借景に天守を取り込んでいる。



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