江 戸 城



  別   名  千代田城   日本100名城
  城地種類  平城
  天守形態  五重五階地下一階(寛永度天守・現状無)
  築城年代  長禄元年(1457) 慶長11年(1606)
  築 城 者   太田道灌 徳川家康
  指   定  国指定史跡他
  所 在 地   東京都千代田区千代田
  アクセス   地下鉄大手町駅から 徒歩5分
          JR東京駅から 徒歩15分

   旧江戸城は、今の千代田区・中央区のほぼ全域にわたる広大な城であった。今江戸城といえば、一般には皇居と東御苑(本丸・二の丸・三の丸の地域)、北の丸のある所と言われている。このうち東御苑と北の丸が一般に公開されている。

 江戸城は、初め長禄元年(1457)に扇谷上杉氏の重臣太田道灌が築城した。その後、上杉定正が太田道灌を謀殺し、城は上杉氏のものとなる。さらに、大永4年(1524)に北条氏綱が扇谷上杉氏を攻め滅ぼし、江戸城は北条氏の支城となった。

 そして、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に移封されて江戸城に入った。家康が入府したころはもちろん天守もなく、館も荒れていたという。

 家康は、入城当初は秀吉に遠慮してすぐには城の改築を行わず、城下の整備に力を入れたが、慶長8年(1603)征夷大将軍になると江戸城を本格的な城郭にするための大改築を行った。その後2代秀忠、3代家光と増改築を重ねて、将軍家にふさわしい天下一の大城郭に整備していった。以後、徳川将軍家の居城として15代将軍慶喜まで265年間続くが、明治元年(1868)新政府に開城することになる。

上の写真は、桜田巽櫓と桔梗門




大手門
 大手門は城の正門である。江戸城の出入り口はすべて櫓門と高麗門からなる桝形門で固められているが、中でもこの大手門は最大のもの。

 まず高麗門を入って右に折れて櫓門に向かう。この右に折れるのが防御上の工夫で、通常攻撃側は、鉄砲や弓矢を射かけながら侵入する場合、左に櫓門があると右利き(が多い)だと門の陰に身を隠して腕だけで射掛けることができる。逆に右へ射掛ける場合は全身を晒すことになり、城側からは狙いやすい。さらに、外側の門を屋根の小さい高麗門としたのは、遮蔽物が小さいから。    




大手門・渡櫓門
 この大手門は、関東大震災で倒壊し、その後修復されたが、昭和20年の東京空襲によって焼失。昭和38年に再建された。

 櫓門を入ってすぐに入苑受付がある。ここで入園票をもらう。これは入苑者をカウントするもので、帰るときに返却する。出入口は、ここ大手門と平川門、北桔橋門の3か所となっている。    




同心番所
   ここは三の丸で、すぐ右に皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品を収蔵・展示する尚蔵館がある。先に進むと現存の同心番所がある。
 番所とは、警備の詰所のことで、江戸城の警備は特に厳重だったという。ここには同心が詰めていて、登城する大名の供の監視にあたっていた。
 なお、ここを馬や駕籠で通れたのは御三家だけ。他の大名は馬や駕籠を降りて検問を受けていたという。  




百人番所
 同心番所を過ぎると、本丸と二の丸に通じるところに、長い建物の百人番所がある。ここには、鉄砲百人組と言われた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていた。各組には同心100人ずつが配属されていた。  




中之門跡
 百人番所の前にあるのが中之門跡。慶長12年(1607)、慶長度天守閣が完成した時に同時に完成した櫓門。この門も明暦の大火や元禄の地震に遭い、焼失・倒壊するも、その都度再建されたが、明治になって櫓門が撤去された。
 石垣も損傷が激しかったため、2005年から解体修理され、2007年にきれいに修復された。    




大番所
 中之門を入ったところに設けられた番所。本丸への最後の番所だけに、他の番所よりも位の高い与力・同心が詰めていた。ここからは大名や旗本であっても、乗物から降りて徒歩で登城しなければならなかった。    




松の廊下跡
 大番所を過ぎて次の中雀門跡を入ると本丸。本丸に向かう手前を左に上っていくと、長い松の廊下跡がある。元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけたという刃傷事件のあったところ。    




石室
 松の廊下跡から左に防御を兼ねた武器庫だった富士見多聞を見ながら進むと、広さ40畳ほどの石室がある。抜け穴とか、金蔵とかいろいろ取り沙汰されたが、大奥の御納戸脇にあたるところから、大奥用の調度品などを納めていたところとみられている。  




本丸から天守台を望む
 先の中雀門跡を真っすぐ進むと、広大な芝生の広場がある。ここが本丸御殿のあったところ。広さはおよそ11,000坪。一番手前が表で、幕府の役所。中ほどに将軍の居所となる中奥。その先が大奥。大奥が全体の6割を占めていたという。

 広場の先に見える石垣が天守台。


 


天守台
 家康が江戸城に入ったときは天守閣はなく、慶長8年(1603)征夷大将軍になったのち築造に取り掛かり、慶長12年(1607)に大阪城を上回る最初の天守閣が完成した。場所は現在ある天守台の南、本丸御殿のあった辺りだという。

 その後、2代将軍秀忠が元和9年(1623)に今の天守台の場所に新たに築造。さらに3代将軍家光は、寛永15年(1638)に五層五階地下一階というこれまでにない大きな天守閣に建て替える。

 天守閣は3度にわたって建てられたが、明暦の大火(1667)により焼失。その後再建の話があり、傷みの激しかった天守台を加賀前田家に復旧させたが、保科正之が、もはや天守閣は不要のもの、大金を出費するのは無駄だ、それよりも城下の復旧を優先すべき、との意見が取り上げられ、以後天守閣の再建はされなかった。




汐見坂
   本丸から二の丸への坂道。本丸拡張にあたり、この下の白鳥堀の一部を埋め立ててできた坂道という。二の丸の先は、今はビルの海となっているが、当時は東京湾が眺められたという。このため汐見坂と呼ばれた。




二の丸
   二の丸に降りると正面右手に武蔵野を思わせる雑木林が広がる。かつて武蔵野に広がっていた雑木林を都心に復元しようとの昭和天皇の発案で造られたもの。左側には各県の木が植えられた林が広がる。
 雑木林では、吹上御苑から移植された花を含め、四季折々の花が楽しめる。




二の丸庭園
 雑木林を抜けると、二の丸池を中心とした庭園が現れる。ここには小堀遠州が造ったという回遊式庭園があったが、明治以降は荒廃していた。昭和43年、東御苑の公開にあたり、9代将軍徳川家重の時代に作られた庭園の絵図面を参考にして造園されたという。
 池にはコウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザなどの水草が咲き競い、4月から10月まで楽しませてくれる。

  池を一周して南へ向かうと入苑した大手門。北へ天神濠を見て進むともう一方の出入口平川門。




平川門
 三の丸の北端にあり、東中央にある大手門、南端にある桔梗門とともに江戸城本丸に至る正式な門であった。尾張、紀州、水戸御三家の登城門でもあったという。またここは、大奥に最も近いところから、奥女中の通用口にもなっていたらしい。

 平川門は、江戸城の北東隅で鬼門の方角にあたるところから、罪人や病・死人、さらには糞尿などもここから出していたので不浄門と呼ばれていた。

 ここも枡形門だが、他の枡形門は防御上高麗門を入って右に折れて櫓門を通るようになっているが、ここは逆に左に折れて櫓門を通るようになっている。ここと竹橋との間が帯曲輪でつながっているが、この立地上の関係だろうか。




平川門・不浄門
 渡櫓門の脇に小さな門がある。最初の絵図面には見られず、のちに建てられたものらしいが、罪人や死人はこの門から帯曲輪に出て、舟で運び出されたらしい。  




富士見櫓
 江戸城に5基あった三重櫓の一つで、現存する唯一の三重櫓。明暦の大火で焼失したが、万治2年(1659)再建された。天守閣が焼失後再建されなかったので、富士見櫓が天守代わりとなっていた。

 太田道灌が築城の際、天守閣に相当する静勝軒を建てたのがこのあたりという。
  わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る
と詠ったように、ここから富士山が見えたので富士見櫓の名がついた。
 本丸南端に位置するが、柵が設けられていて本丸からは近づけない。



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