街歩き


草加宿と日本百選の道草加松原遊歩道


2011.9.25歩く

コ ー ス  徒歩1時間55分
東武伊勢崎線草加駅(10分)浅古家の地蔵堂(8分)八幡神社(10分)歴史民俗資料館(5分)おせん茶屋(5分)東福寺(10分)札場河岸公園(15分)百代橋(20分)蒲生大橋(15分)宝積寺(4分)氷川神社(15分)東武新田駅

 草加煎餅で知られる草加の街は、江戸から数えて千住の次の2つ目の宿場。松尾芭蕉の「奥の細道」にも登場する。しかし宿場としては比較的新しく、寛永7年(1630)、大川図書らがそれまで大きく迂回していた日光街道を直線コースにし、ここを宿場町にしてからのこと。以後宿場町として、また綾瀬川を舟運に利用して物資の集積地として栄えた。
 綾瀬川沿いの松並木は遊歩道としてきれいに整備され、日本百選の道に指定されている。市内で宿場の面影を訪ね、美しい松並木を歩いてみた。

    

東武伊勢崎線草加駅
 草加へは、浅草から東武伊勢崎線で28分。JR上野駅からは常磐線で10分で北千住駅。ここで東武線に乗り換えて10分で草加駅に着く。

   

おせんさん像
 駅東口を出ると、駅前広場の一角で煎餅を焼く「おせんさん」像が出迎えてくれる。
 草加宿で団子を売っていたおせんさんという人が、この団子をつぶして煎餅として売り出したところ大変な評判になったという。これが草加煎餅の始まりで、おせんさんはその創始者という。が、これは昭和になって作られた話。
 本来保存食として農家で作られていたものが、草加宿ができるとともに販売され、これが評判となり草加の煎餅として知られるようになったという。


浅古家の地蔵堂
 まず草加宿を歩いてみよう。駅東口から線路と平行する道を南へ。2本目の少し広い道を左に折れるとその先に草加市役所があり、旧日光街道に出る。その角に地蔵堂がありここから北が草加宿のあったところ。
 江戸時代の豪商浅古氏が赤堀用水を流れてきた地蔵を拾い上げ、子育て地蔵としてここに祀ったと伝えられている。

日光街道
 日光街道は、古くは千住・越谷間は草加のずっと東側を通っていたらしい。これを慶長11年(1606)幕府の命を受けた大川図書らが、直線ルートに付け替えたという。後、寛永7年(1630)に江戸から数えて2番目、千住の次の宿として設けたのが草加宿。
 大川図書は、土本氏を名乗り小田原北条氏に仕えていたが、小田原落城により浪人となって現在の市内松江町あたりに移り住んでいたという。  

八幡神社
 日光街道を北に進み、駅前の通りを横断するとすぐ先右手に八幡神社の参道がある。境内はさほど広くなく社も小振りだが、清楚な佇まい。
 享保年間(1716〜36)に稲荷社を祀ったのが始まりで、安永6年(1777)に八幡神像を祀ってから八幡神社となったと伝えている。      

獅子頭
 境内を掃除しておられた近所の氏子さんだろうか、わざわざ社殿を開けてくださった。
 中には雌雄の獅子頭一対があった。高さ83cm、幅80cm、奥行87cmと大きなもの。この大きさからして、獅子舞に使われたものではなく、供奉のためのものだろう。山車に乗せて曳いたという記録はあるようだ。市の有形文化財に指定されている。

歴史民俗資料館
 再び旧日光街道に戻り、先に進むと右手に郵便局があるのでその先を左に入る。200mほどで歴史散策路に突き当たるのでこれを右へ。すぐに歴史民俗資料館がある。
 県内初の鉄筋コンクリート造りの草加小学校の西校舎を改修して昭和58年にオープンしたもの。この奥が市立草加小学校になっている。

館内展示
 せんべいの製造具を始め、歴史・民俗資料を多数収蔵し、そのうち常時150点ほどが展示されている。草加宿の歴史を知るのに良いので、ぜひ見ていきたい。

おせん茶屋公園
 資料館を出て右へ。その先を小学校を回りこむように右へ行くと旧日光街道へ出る。道路を渡ったところの角に小さな公園があり、宿場の雰囲気をイメージした休憩所がある。元町役場のあったところという。
 トイレもあるので一休みして行くのに良い。

草加せんべい
 草加といえば、最初に紹介した草加せんべい。市内のいたるところにせんべい屋がある。うるち米100%の生地に醤油をつけてこんがり焼いたせんべいは少し固め。以前は良く食べたが、歯を悪くしてからは敬遠気味。
 この先の角を左に入ると東福寺がある。

東福寺
 正式には、松寿山不動院東福寺。慶長11年(1606)大川図書によって創建されたもので、開山は僧賢宥。本尊は不動明王。本堂内外陣の欄間・鐘楼の彫刻は見事なもので、山門とともに市の指定文化財になっている。境内は市民が選んだ草加八景の一つになっている。  

草加宿神明庵
 東福寺を出て旧日光街道を北に進むと古い町家風建物の神明庵がある。
 江戸末期の建物で、飲食店を営んでいたといわれる久野家(大津屋)の店舗部分。住居・倉庫部分は新しく建て直されているが、街道に面した店舗部分が所有者の久野氏の思いで残されたもので、当時の町家建築の姿が偲ばれる。今は市が無償で借り受け、保存しつつ市の観光スポットとして訪れる人をもてなしている。

おせん公園
 旧街道はこの先で日光街道(県道足立越谷線)と合流する。その角に小公園があり、大きなせんべいに見立てた自然石に「草加せんべい発祥の地」と彫った記念碑が建てられている。

 川の手すりにもせんべい焼きのモニュメントが。

札場河岸公園
 おせん公園から街道を渡り、綾瀬川に出ると札場河岸公園に出る。昭和54年10月に襲った台風20号で綾瀬川が氾濫し、広い地域で大きな被害をもたらした。このため綾瀬川や伝右川の河川改修、排水機場の建設などの行われ、同時に公園として整備された。
松尾芭蕉像
 園内に松尾芭蕉像が建っている。草加といえば「奥の細道」でも有名。芭蕉は草加に泊まったのか。
 「其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかかれる物先くるしむ。」と、奥の細道冒頭草加のところに書かれている。これからみて、初日は草加宿に泊まったように思われがちだが、同行した曽良の日記によると、「廿七日夜、カスカベニ泊ル、江戸ヨリ9里余」とある。初日の泊まりは草加か粕壁か。これは曽良の粕壁が正しいと思われる。千住から歩きだして草加はあまりに近い。それに芭蕉は泊まったとは書いていない。
   ただ曽良の日記の出だしの「巳三月廿日、同出、深川出船」の部分が気になる。20日に出発して、27日粕壁というのは腑に落ちない。この20日は27日の間違いだろう。「奥の細道」の旅立ちの条では、芭蕉は「弥生も末の七日」としている。これを3月27日としたら辻褄が合う。いずれにしても謎だ。

甚左衛門堰
 伝右川に造られた2連アーチ型の煉瓦造水門。灌漑や増水のときに使用されたもので、明治27年から昭和58年まで約90年間使用された。農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物として埼玉県の文化財に指定されている。  

正岡子規句碑
 公園内にある正岡子規の句碑。
  「梅を見て野を見て行きぬ草加まで」

 他に水原秋桜子の句碑もある。
  「草紅葉草加煎餅を干しにけり」  

百代橋
 札場河岸公園を後にして綾瀬川沿いの遊歩道を進む。この遊歩道には2つの太鼓橋が架けられている。公園を出てすぐ、谷古宇橋の交差点を跨いでいるのが矢立橋。そして松原団地駅に通じる道路を跨いでいるこの橋が百代橋。どちらも奥の細道に書かれている「月日は百代の過客にして…」「是を矢立の初めとして…」から付けられた名前。松並木の雰囲気にピッタリ、絵になる橋だ。  

松並木遊歩道
 日光街道沿いに続く松並木。寛永7年(1630)に綾瀬川が改修されたときに植えられたと伝えられており、江戸時代から千本松原と呼ばれて名所となっていた。この松、一時は激減したものの、市民の手で補植され、今では600本あまりの並木となっている。
 遊歩道は石畳が敷き詰められ、きれいに整備されていて、日本の道100選に選ばれている。ウォーキング、ジョギング、サイクリングを楽しむ人が多い。  

綾瀬川の堤防には点々と曼珠沙華が咲いていた。  

芭蕉・曽良旅立ちの壁画
 松並木が終わる頃、前方に東京外環自動車道が見えてくる。これを潜ると左の建物の壁面に大きなタイル画が3面描かれている。芭蕉と曽良の旅姿を想像して描いたものという。
 綾瀬川沿いの道はこの手前から桜並木に変わっている。  

蒲生大橋
 綾瀬川沿いの道も蒲生大橋を過ぎると細くなりすぐに旧日光街道に出る。これを少し戻ると信号があるのでここを横断し、西へ進む。東武電車の高架下を潜り、すぐの信号を右へ入る。道が左へ大きくカーブする角に宝積寺がある。  

宝積寺
 山号を金明山といい、真義真言宗のお寺。本尊は阿弥陀如来。境内の地蔵堂には中央に勝軍地蔵と両脇侍地蔵を置き、左右に千体の小地蔵が安置されており圧巻。
 千体地蔵は、地蔵菩薩が六道に苦しむ衆生を教化するため分身した有様を造形化したもので、中世に多く作られたが、このようにほぼ完全な形で残っているのは珍しいといわれる。市指定文化財。  

氷川神社
 宝積寺から西へ少し行くと氷川神社がある。旭神社とも呼ばれているが、創建は不明。今の本殿は江戸中期に建てられたもの。江戸時代の数学者が問題を解けるように祈願して掛けた絵馬、算額が奉納されている。市指定文化財。
 鳥居に藁で作った蛇が架けられているのも珍しい。毎年10月に蛇作りが行われるという。

 ここからもと来た道を戻り、先ほどの信号をわたって300mほど行くと左に新田駅が見えてくる。    


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