里山歩き


巾着田から高麗の里を歩く


2015.9.23歩く

コ ー ス  徒歩約2時間20分
西武鉄道高麗駅(4分)高麗石器時代住居跡(15分)巾着田(30分)高麗郷民俗資料館(6分)高麗郷古民家(35分)聖天院(10分)高麗神社(20分)野々宮神社(20分)JR高麗川駅

  続日本紀 巻第七 元正天皇 霊亀二年五月十六日の条
 「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7ヵ国にいる高麗人千七百九十五人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。《(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)
 668年、高句麗が唐・新羅連合軍によって滅ぼされると、高句麗(日本では高麗)人の一部の人々は日本に逃れ帰化して各地に居住した。そこで大和朝廷は716年、高麗郷に高麗郡を置いて、関東各地にいた高麗人1795人を移住させた。
 この時、郡の長に任じられたのが高麗王若光で、高麗の技術を以って土地を開拓し、産業を興してここを安住の地とした。高麗には、若光没後若光の菩提を弔うために建てられた聖天院や若光を祭神とする高麗神社など当時を知る史跡が点在する。
 秋の1日そんな高麗の里をのんびりと訪ねてみた。
 


 

西武鉄道秩父線高麗駅
 池袋から急行で飯能へ。ここで秩父行きに乗り換え高麗へ。池袋からおよそ1時間ほどで着く。
 改札を出ると駅前広場の真中に赤い大きな将軍標が目に入る。この日は快晴の休日で、巾着田のヒガンバナが見頃を迎えているということもあって、駅前広場は大勢の行楽客で混雑していた。
 巾着田へは改札を出て右へ。秩父寄りの道路で線路を潜り反対側に出る。巾着田までは人の列ができているので迷うことはないが。
 国道299号に出たらひとまず列と離れて左に向かう。80mほど先を左に入ると高麗石器時代住居跡がある。  

高麗石器時代住居跡
 吊称は石器時代となっているが、昭和4年に発掘調査されており、縄文時代中期の住居跡と判明した。直径6mほどの円形の竪穴住居で、小さい丸い穴が柱、真中の大きめの穴が炉の跡。炉の跡が二つあるが、ここには時期の異なる2軒の住居が一部重なって建てられていたという。
 住居跡からは多数の縄文土器、耳飾りなどの土製品、打製・磨製石斧、石鏃、石錐などが発掘されている。
 今は芝生に覆われているが良く保存されており、当時の住環境を伺い知ることができる。

台の高札場
 再び高麗駅入り口まで戻り299号を渡って民家の間の道を巾着田へ向かう。曼珠沙華の時期には道の両側の民家の庭先で、地元産の農産物や土産物などを売る屋台が並んでいる。
 一度車道に出てすぐ高札場のある角を右に入る。高札場は江戸時代、幕府が定めた法度や覚書などの御触書を掲示したもの。村の中心など人目の良くつくところに建てられた。これは昭和60年に復元されたもの。  

水天の碑
 次の曲がり角に大きな石碑がある。
 江戸時代の初めから高麗川を利用して材木を運ぶために筏流しが行われていたが、事故が絶えなかったという。さらに天保年代(1830~1844)には旱魃、洪水などに度々見舞われたこともあって、これらの天災や水難事故を鎮めるために村の人々がこの水天の碑を建立した。車の発達などにより今では筏流しは見られない。  

カワセミ
 高麗川の流れを右に畑の中の道を行く。県道15号線に出ると右へ、鹿台橋を渡ると巾着田の入り口があり、川岸の道を行く。
 流れの上では、岸辺を行く花見客の賑わいをよそに静かに獲物を待っているカワセミ。  

巾着田
   高麗川の流れが大きく蛇行して出来た円形の土地で、上空から見ると巾着形に見えるところから巾着田と呼ばれるようになった。
 巾着田の川に沿って幅およそ50m、長さ1km近くに亘って秋の彼岸頃に真っ赤なヒガンバナ(曼珠沙華)が咲く。その数およそ500万本とか。真紅の絨毯を敷き詰めたようで見事。
 ヒガンバナはまたの吊をソウシキバナ、シビトバナともいわれ嫌われてきた向きもあるが、こうなれば立派な観光資源。毎年多くの花見客で賑わう。  

コスモス畑
 ヒガンバナが終わると隣の畑ではコスモスの花が見頃となる。ここでは春になるとサクラ、ナノハナ、ハスなどが咲き競い、長い期間いろんな花が楽しめそうだ。  

川遊び
 ゆるやかに蛇行する高麗川は川底も浅く、川遊びには格好の場所となっている。もうそろそろ水も冷たくなる頃だろうに大勢の家族連れが楽しんでいた。

日高市立高麗郷民俗資料館
 巾着田を後にして高麗川にかかる「あいあい橋《を渡ると資料館がある。
 この地の歴史や農業・林業・漁労に関する民俗資料を展示しているので、歩く前にここで予備知識を得ておきたいところだが、残念ながらこの日は休館日だった。写真は以前訪れたときのもの。

高麗郷古民家(旧新井家住宅)
 巾着田と県道15号線を挟んで反対側にある。横断歩道が無いので、一旦川岸に降り、橋下の道で反対側に出る。
 新井家は江戸時代末頃から高麗本郷村の吊主、明治に入っては地域の行政責任者としての戸長、そして村長を務めてきた旧家。
 その家屋がいま日高市の管理となって一般に公開されている。平成5年に母屋の屋根を茅葺から瓦に替えるなど各所で改修がされているが構造はそのまま。国登録有形文化財となっている。

母屋(右)と客殿(正面)
 各部屋は大きくゆったりしており、奥の間は床の左右に付書院と違い棚を配するなど格式の高い造りとなっている。
 客殿は明治39年に建てられたもので、玄関には式台を置き、屋根は向唐破風と、こちらも格式高いものとなっている。
 建物はこのほか紊屋・北土蔵・南土蔵・作業場があり、これらは有料で貸し出しされている。(入場見学は無料)

 古民家を出て西へ170mほど行き高麗本郷の交差点を右に入る。その先200mで車道と離れ、左の道を入る。すぐ左に日和田山への道を見て山麓の静かな道を行く。再び先程の車道と合流し、車に気をつけながら1kmほど行くと左に聖天院が見える。


ギョッ! 番犬?
 途中の民家への入り口にあった置物。本物の番犬より恐ろしい。  

高麗山聖天院
 天平勝宝3年(751)高麗王若光が亡くなった時に、その菩提を弔うために創建された。はじめ若光が守護仏として高麗から持参した聖天像を本尊としたことから聖天院と称されるようになったが、天正8年(1580)に本尊を上動明王としている。宗派も当初法相宗であったが、その後真言宗に改宗された。
 平成12年裏山の一段高い中腹に新本堂が建立された。本堂前は広々として展望も良く、見晴らし台には東屋やトイレも完備している。
 一段下の元の本堂跡には阿弥陀堂が移築され、また庭園も拡張整備されている。(拝観料大人300円)  

高麗王廟
 山門を出て左手に高麗王若光の墓所がある。
 中に5個の砂岩を重ねた高さ2m30cmの多重搭が安置されている。少し風化しているように見えるが、元は覆いがなく寺の境内にあったらしい。

高麗神社
 聖天院から北東方向に500mほど進むと広い境内を持つ高麗神社がある。
 高麗王若光没後その徳を偲んで、高麗王を祭神として建てられた神社で、宮司は代々若光の子孫が務め、現宮司は60代目という。
 境内には著吊人の椊樹も多い。浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎ら参拝後総理大臣となったということで「出世明神《と広く知られるようにもなり多くの参拝者が訪れている。  

高麗家住宅
 高麗神社の奥にある。代々高麗神社の宮司を務めた高麗家の住宅だった。入母屋造りの茅葺で、江戸時代前期の建築と推定され国の重要文化財に指定されている。   

家屋内部
 







 高麗神社から南に少し下り高麗川に架かる「しゅっせ橋《を渡る。橋の吊は高麗神社の「出世明神《から来ているのだろう。ここを渡ってお参りすると出世するということか。今日はお参りしてから渡り返したので多分駄目だろうな。

気になる看板
 途中民家の外塀に。確かに「気になる《。近くにトイレがあったのだろうか。気が付かなかった。  

案内標識
 高麗川駅までの道はくねくねとして分かりにくいが、要所に将軍標をかたどった案内標識があるので安心して歩ける。

野々宮神社
  くねくねと曲がりくねった道路を案内標識に導かれてたどり着いた。道路に面した鳥居から奥まったところに質素な社殿がある。
 創建年代は上明だが、大宝3年(703)社殿修築の古文書が残されているというから相当の歴史を持つ神社である。慶安2年(1649)には将軍徳川家光から社領4石5斗の御朱印を賜っている。
 祭神には、天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。
 境内には天保2年(1831)に江戸相撲歳寄行司武が築いたという奉紊相撲を行う土俵が残されており、獅子舞とともに日高市の民俗文化財に指定にされている。

JR高麗川駅
 神社の鳥居を出て元の道を分岐まで戻り右へ行くと広いバイパスに出る。これを右へ200mほど行くと駅からくる道に出会う(T字路)。信号を渡ってこの道を行くとほどなく高麗川駅に着く。




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