街歩き


小江戸川越を訪ねて


2008.6.10歩く

コ ー ス  徒歩2時間5分
東武東上線川越駅(15分)本川越駅(10分)蓮馨寺(15分)時の鐘(3分)蔵造り資料館(2分)大沢家住宅(5分)菓子屋横丁(10分)東明寺(10分)氷川神社(3分)市立博物館(1分)本丸御殿(15分)成田山川越別院(3分)喜多院(3分)中院(30分)川越駅

中世川越は戦略上重要な拠点として数々の攻防を繰り広げられたが、徳川家康江戸入府に際し、北の守りとして重臣が川越城主となった。その後知恵伊豆といわれる松平信綱が新河岸川の舟運を整備し、江戸と結ぶことによって商業の街として栄えるようになった。しかし度々の大火に会い、特に明治26年の川越大火後は火事に強い蔵造りの店が造られるようになった。重厚な店蔵が軒を連ねる街並みは今では貴重な存在となっている。歩く距離は短いが、見るべきものが多く、1日では時間切れになってしまった。

    

東武東上線川越駅
 池袋から東武東上線急行30分で川越駅。

 改札を出て観光案内所で観光案内図をもらってスタート。駅を出て左へ。最初の信号を北に渡るとクレアモール。  

クレアモール
 丸広百貨店を初めファッションの店が軒を並べる、若い活気のある通り。


西武池袋線本川越駅
 クレアモールが終わった東照宮中院通りを左に行くと西武本川越駅前の交差点に出る。
 本川越駅には池袋から西武新宿線で1時間ほど。

中央通り商店街
 本川越駅の交差点から北へ向かう。古くからの店が続くが、商店の中心はクレアモールに移ったのか、シャッターを閉じている店もあり、人通りも少なくひっそりとしている。蔵造りの町並みはこの道を北へ進む。

熊野神社・銭洗弁天
 蔵造り町並みの手前、蓮馨町の交差点を渡るとすぐ右手にあった。蓮馨寺の開祖により紀州熊野から勧請した神社。蓮馨寺境内にあったといわれる宝池と同じ水源の水をこの地に引いて銭洗井水としたというからまだ新しい。
 ここで金銭を洗うと何倍にも増えるのではと思い早速試みたが、それは真実ではなく、わが身わが心の不浄罪穢を洗い清めると言うこと。欲を捨て、清い気持ちで街歩きを楽しもう。 

蓮馨寺
 銭洗弁天を出て道路の向かいにある。
 川越夜戦の後川越城の城将となった大道寺政繁の母である蓮馨尼の願いにより、永禄元年(1558年)感誉存貞上人(後に大本山増上寺十世となる)が開創したお寺。浄土宗。本尊は木造阿弥陀如来坐像。徳川時代に関東十八檀林の一つに列せられた。境内には、各地を回り、困窮する人々を救ったり、貧しい家庭の子を預かり勉学の機会を与え、人々から崇められていた呑龍上人を祀る呑龍堂があり、毎月8日には呑龍デーとして賑わっている。   

おびんづるさま
 本堂前にある「おびんづるさま」とは、釈迦の16人の弟子(16羅漢)の一人。悪いところをなでるとすぐなおる、とあったので早速あちらこちらなでてみた。すぐ先程銭洗い弁天で欲を捨ててきたばかりなのに、これでは駄目ですね。人々の願いは皆同じとみえて、特に頭が光っていたように思うのですが。  

山崎
 仲町の交差点の角にある山崎は、天明3年(1783年)から続く川越藩の御用達だった菓子商。明治26年(1893年)の川越大火で建物は消失したが、その後現在の蔵造りの店を建てた。隣に山崎美術館があり、古美術や菓子に関する古文書等展示している。
 蔵造りの町並みはここから始まる。

蔵造りの町並み
 仲町の交差点から札の辻の交差点までの間の一番街の両側に蔵造りの店が並ぶ。きれいな石畳の歩道と街灯。電線は地中に埋められてすっきりとしている。平成11年12月1日に国重要伝統的建造物郡保存地区に指定された。
 この通り、県道川越・栗橋線のためか交通量が多く横断には注意を要す。写真も撮り難い。

店蔵
 大きくどっしりとした鬼瓦。頑丈な観音開きの扉。さらに袖蔵を持つもの。一つ一つに特徴があり、見て回るのも楽しい。

時の鐘
 川越と言えば時の鐘。川越のシンボルになっている。最初寛永年間(1624〜1644年)に、川越城主酒井忠勝によって建てられたといわれている。その後櫓、鐘共何度か造り替えられたようだが、現在のものは明治26年の大火の翌年に建てられたもの。今も6時、12時、15時、18時の日に4回タイマーで自動で鐘を撞き、時を知らせている。
 高さは16.2m。奈良の大仏と同じ高さとか。街の中央にあるためどこからでも良く聞こえるとか。残したい日本の音風景100選に選ばれている。

!?
 なんですか、これは。身につまされると言うか、こんなにはならないと思いますが。他人の振り見て我が振り直せ、ですね。

蔵造り資料館
 元は万文というタバコ元売り捌き商の小山家の土蔵。幕末の頃は飯能や所沢あたりまで商圏として手広く商いをしていたようだが、タバコが専売になるに及んで廃業した。
 この建物も明治の大火以後建てられたが、廃業とともに荒れていたものを市が買い取って資料館にしたもの。
 正面向かって右側、写真向こう側に独立して少し小さい店蔵がある。他で見られる袖蔵とも違う独特の建て方。貸店舗に使われた添屋ではないかといわれている。  

大沢家住宅
 呉服を商っていた大沢家の店蔵。寛政4年(1792年)の建築で、国の重要文化財に指定されている。  明治26年(1893年)の川越大火のときにも、この蔵造りの家が焼け残ったことから、この辺り一帯蔵造りの店が建てれるようになった。


蔵造りの町並みの尽きる札の辻の交差点を左折、200mほど進むと左に入る通りに菓子屋が軒を連ねる。  

菓子屋横丁
 ここはすぐ北にある大蓮寺の参詣道で、江戸末期ここで菓子商を営んでいた鈴木籐左衛門が、弟子にのれんわけをし、次々に店を持たせていったのが始まりといわれている。その後も各地から菓子職人が集まってきて、一時は70軒ほども数えるほどになり、大正12年の関東大震災の折壊滅状態になった東京の菓子商に替わって関東一円に菓子を供給したという。
 今も20軒ほどが店を開き、懐かしい駄菓子や川越名物の芋菓子が並び、せんべいを焼く芳ばしい香りが漂ってくる。  

新河岸川
 元の通りへ戻り左に進むと、川越の町をぐるりと取り囲むように新河岸川が流れる。ここを高沢橋で渡り右へ。次の坂下橋で渡り返し道なりに進む。蔵造りの町並みから続く県道川越・栗橋線を越えると程なく東明寺が見えてくる。  
東明寺(川越夜戦跡)
 ここは有名な川越夜戦のあったところ。天文6年(1537年)に北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再び城を奪還すべく、天文14年(1545年)山内上杉憲政、古河春氏との連合軍8万余騎で城を取り囲んだ。守る北条綱成軍は3千。半年持ち応え兵糧も尽き果てた頃援軍として北条氏康が駆けつけた。が、こちらは8千騎。
 圧倒的不利の中4月20日、氏康軍は夜襲をかけた。これに呼応して城兵も打って出たため、不意を突かれた連合軍は算を乱して敗走。上杉朝定は討死。白鉢巻や合言葉を駆使しての戦略が10倍の敵を倒したとして有名になった。

川越氷川神社
 東明寺から南へ下り突き当りの県道上尾・川越線を左へ、裁判所の前を行くと川越氷川神社。
 創建は古く、欽明天皇の2年(541年)に武蔵一の宮(大宮氷川神社)から分祀したと伝える。祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命、脚摩乳命、手摩乳命の5柱。本殿は嘉永3年(1850年)に建立されたもので、江戸彫りといわれる見事な彫刻が施されている。毎年10月に行われる例大祭は「川越まつり」として賑わう。  

川越市立博物館
 氷川神社を後に東へ進み、新河岸川の手前の広い通りを右折するとやがて左手に市立美術館がある。美術館に沿って左に折れると美術館と並んで市立博物館がある。
 ここでは、川越の原始・古代から現代までの歴史、特に新河岸川の舟運で栄えた川越について、蔵造りの街の様子、川越のまつりなど、歴史・分化・民俗について資料を交え詳しく紹介している。川越を知る格好の施設。ここは川越城の二の丸のあったところ。  

川越城・本丸御殿
 博物館の前の道路を渡ると川越城本丸跡で、本丸御殿がある。
 川越城は長禄元年(1457年)上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて築城したもの。その後、天文6年(1537年)北条氏綱がこれを攻め落とし北条氏のものとなる。天正18年(1590年)豊臣軍の前田利家に落とされ、同年徳川家康江戸入府に伴い、川越藩が設置され、初代藩主酒井重忠が入った。明治の廃藩置県で城は解体されたが、わずかに本丸御殿の玄関広間と家老詰め所が残され県の文化財となっている。  

三芳野神社
 本丸御殿の少し先にある。平安時代初期の創建と言われているが、川越城築城後は、城の守護神として歴代城主の尊崇を受けてきた。
 神社は城郭内にあるため庶民の参詣は難しく、そのことを歌ったのが童謡「とうりゃんせ」で、ここが歌の発祥地となっている。
 「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ」在平業平の伊勢物語に出てくる、入間の郡みよし野の里、はこの辺りだと言われている。  

富士見櫓跡
 三好野神社の参道を出て、通りを右へ行くと小高い森がある。川越城取り壊しの前はここに三層の富士見櫓があった。天守閣の無かった川越城の中では、この富士見櫓が一番高かった。かつてはここからその名の通り富士山が見えたのだろう。
 ここからさらに西へ行くと川越第一小学校に突き当たる。この辺り川越城の南大手門のあったところで、校門内にその碑がある。  

成田山川越別院
 校門の前を左に行き道なりに右へ折れると信号があり、これを渡って南へ進むと正面に成田山川越別院が見えてくる。
 成田山新勝寺の別院で、開祖は下総葛飾の石川照温。師は幼少の頃からの苦労が重なり失明するが、新勝寺で断食の浄行に入ったところ元通りに見えるようになった。感激した師は生涯を不動明王に捧げようと、当時廃寺となっていた本行院を再興したのが川越別院の始まりと言われている。以後人々から「久保町のお不動様」として慕われるようになった。  

喜多院
 成田山川越別院の山門を出て、前の通りをさらに南下すると喜多院の境内に入っていく。
 喜多院は天長7年(830年)、天台座主の慈覚大師円仁が開いた無量寿寺が始まり。その後戦火等で荒廃していたが、永仁4年(1296年)比企郡都幾川村慈光寺の尊海が再興、中院、北院、南院を建てた。慶長17年(1612年)徳川家康から「東叡山喜多院」の名を受け、幕府の支援の下で発展した。
     
 寛永15年(1638年)の大火で山門以外は焼失し田が、翌年江戸城内から、庫裏・客殿・書院(いずれも国重文)が移築され、再建された。客殿には3代将軍「家光誕生の間」がある。

多宝塔
 寛永15年(1638年)に、今の山門前の駐車場の辺りに建てられたが、明治45年に客殿と慈恵堂の間に移築され、さらに昭和50年に現在の場所に復元移築された。均整の取れた大変美しい塔である。多宝塔は一重だが、裳階をつけているので二重に見える。内部に阿弥陀如来を祀る。    

鐘楼門
 喜多院の東南隅にあり、寛永10年(1633年)建立の記録がある。1階は袴腰で囲まれ、2階に勾欄が付き、正面に竜、背面に鷹の立派な彫刻が施されている。 国重文。中の銅鐘は元禄15年(1702年)の名があり、国重美。  

仙波東照宮
 喜多院の境内を南に行くと仙波東照宮。
 元和3年(1617年)、徳川家康の遺骸を久能山から日光に移す道中、天海僧正が喜多院に4日間留めて大法要を営んだことから、寛永10年(1633年)に建立した。
 ここは元中院のあったところで、これを南に移し、小高く土盛をして建てた。右へ石段を登ると拝殿・幣殿・唐門・瑞垣・本殿(いずれも国重文)と続く。左に石鳥居・随身門(共に国重文)がある。    

中院
 創立は喜多院と同じ。無量寿寺の中に北院、中院、南院として建てられた。初め中院は無量寿寺の中心であったが、天海僧正が家康の信頼を得たことで中心は喜多院に移った。
 元は現在の仙波東照宮の場所にあったが、東照宮の建立の折、現在地に移された。現在は天台宗別格本山特別寺として喜多院とは独立している。なお、南院は明治の廃仏毀釈の中で廃寺となった。  

中院庭園
 中院境内には島崎藤村の義母の墓があり、当村が昭和4年に義母に贈った茶室「不染亭」が平成4年に移築されている。

 中院を出て西へ進み、川越工業高校の南沿いの道を西へ行くと今朝方歩いたクレアモールに出て川越駅は近い。  


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