街歩き


忍城の城下町行田散策


2013.5.3歩く

コ ー ス  徒歩約1時間20分
秩父鉄道行田市駅(5分)国道125号(8分)浮き城の径(6分)諏訪神社・東照宮(2分)忍城址・行田市郷土資料館(10分)水城公園(14分)高源寺(1分)天満社(5分)奥貫蔵(4分)行田八幡神社(10分)大長寺(15分)行田市駅

 利根川と荒川に挟まれた湿地帯に建つ忍城は、守り易く攻め難い城で、豊臣秀吉小田原城攻めのときの、石田三成による水攻めにも良く耐えた。天守閣こそなかったものの城郭は良く整っており、関東七名城の一つに数えられていた。現在残された本丸跡と、足袋の町行田の足袋蔵など訪ね歩いた。
 



秩父鉄道行田市駅
 最寄り駅の行田市駅へは、上野から高崎線でJR熊谷へ。ここで秩父鉄道に乗り換えて行田市駅へ。上野から1時間25分ほど。
 なお、高崎線行田駅から市内循環バスもあるが、午前中2本と少ないので注意。  

国道125号線
 駅前の通りを南へ行くと国道125号線に行き当たる。道路を渡って真直ぐ進むとさきたま古墳。忍城址へは右に折れる。途中に観光情報館があるので、市内歩きの地図や情報を仕入れて行くと良い。
 この通り、なぜかすっきりしていると思ったら、どこにでもある目障りな電線類がここには見当たらない。平成10年に道路の整備事業が行われ、電線類が地中に埋設されたからだという。

童・銅人形
 電柱に替わって設置されたのがきれいな街灯とこの銅人形。赤川政由制作による銅人形は、国道に沿って市役所から東の栄橋の間860mに亘って、道の両側に39体設置されている。
 39体の童人形は、たこあげ,はねつき、こままわし等の遊び。おそうじ、みずまき、こもり等のお手伝い。その他お祭などいずれも郷愁を憶える懐かしいもの。表情もユニークで、これを見て廻るだけでも楽しい。

浮き城の径
 行田市役所のある交差点を南側に渡って、市役所の南側に沿ってつけられた遊歩道を行く。鯉の泳ぐ池や東屋もあり、のんびりしていくのも良い。
 正面に、今は資料館の一部となっている復元された御三階櫓を望みながら進む。

 堀のある忍城通りに出るとそこは忍城祉だが、先ずは諏訪神社にお参りしていこう。堀に沿って右へ。国道125号線を渡る。

諏訪神社・東照宮
 境内に入りすぐ右手にあるのが諏訪神社。創建は建久(1190)年代と伝える。その後成田親泰が忍城を築城した際城鎮守にし、寛永16年(1639)新たに城主となった安部忠秋が本殿・拝殿を造営したという。祭神は建御名方命・八坂刀売命。
 一方、東照宮は、はじめ寛永2年(1625)に松平忠明が大和郡山に造営し、移封の都度遷宮してきたが、幕末鳥羽伏見の戦いの折、諏訪神社に合祀されたという。
 ここは忍城の諏訪曲輪あったところ。  

忍城の復興された城門と橋
 諏訪神社から再び国道125号を渡り返し、橋を渡って城内に入る。
 ここは忍城の本丸跡。忍城は平城で、利根川と荒川に挟まれた沖積地に構えられた。湿地帯の中の微高地を利用しており、守りやすく攻めにくい城だったという。
 忍城の築城がいつの頃かははっきりしないという。はじめ忍氏の館のあったところに、16世紀半ばに成田親泰が築城したと伝えられている。成田氏ははじめ山内上杉氏の被官であったが、後北条氏と結んだ。このため関東管領となった上杉謙信に再三攻められるがついに落ちなかったという。    

 忍城の名を高めたのは、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原城攻めのとき。本隊が小田原攻めをする一方、別働隊が関東の北条配下の城を攻撃した。忍城を攻めたのは石田三成を総大将に、佐竹、宇都宮ら総勢2万余。この時城主の成田氏長は小田原城にいたため、守ったのは家臣ら2千ほど。三成は丸墓山古墳に陣を張り、城の周りに石田堤を築いて水攻めにしたが落ちず、逆に堤防決壊で石田勢に被害が出たという。結局1ヶ月ほど持ち堪えたが、その間小田原城のほうが落ちたため、開城することになった。
   この時、幾ら水攻めしても城は水に浮かぶように見えたので、浮き城と呼ばれるようになったという。

御三階櫓・行田市郷土博物館
 徳川家康が関東に入ると、忍城も松平氏、阿部氏、松平氏と続き、三階櫓、二階櫓、帯曲輪なども造られ、城としての形が整えられていった。だが明治6年には廃城と決まり、建物等一切取り壊され、一部移築された。

 昭和63年に、本丸跡に三階櫓が再建された。これは外観だけで、内部は行田市郷土博物館の一部となっている。
 博物館では、さきたま古墳群で知られる古代の行田、忍城と歩んだ中・近世の行田、そして足袋の町行田と、系統的に行田市を紹介している。  

太鼓門跡
 本丸跡を出て忍城通りを南へ進む。
 かつての忍城は、本丸跡を除いて市街地化されているが、各所に史跡碑があり、昔を偲ぶよすがとなっている。
 本丸跡を出てすぐ南側に忍中学校があり、その校門脇に太鼓門跡の石碑がある。太鼓門は二の丸の入口にあたる門で、忍中学校のほぼ全域が二の丸だったところで、平屋10数棟が藩主の居宅として並んでいたという。  

水城公園
 忍城通りをなおも南へ進み、今度は中央小学校を左に見て二つ目の通りを左に入ると水城公園。
 かつて忍城の外堀となっていた沼を利用して造られた公園で、先ず日本庭園が入口にある。小さな池に石燈籠や松などを配し、落着いた雰囲気。いま本丸跡に建てられた三階櫓も、壊される前はこの手前あたりに建てられていた。

 日本庭園の奥が広々とした芝生の広場。子供が遊び回ったり、家族連れでお弁当を開いたり、市民の憩いの場となっている。  

 芝生広場の南側にあるしのぶ池では多くの釣り人が楽しんでいる。
 また、隣のあおい池では花の時期にはホテイアオイの花が楽しめる。

 水城公園を南側に出て東へ向う。古墳通りを渡って左折するとすぐ右手に高源寺がある。ここは忍城の佐間口のあったところ。  

高源寺
 豊臣秀吉の小田原攻めの際に、忍城は石田三成によって攻められたが、ここにあった佐間口は、正木丹波守利英の奮戦によって持ち堪えたという。開城後成田氏は蒲生氏郷に預けにられることになったが、正木利英は豊臣方、成田方双方の戦死者を弔うために武士を捨ててこの地に残り、高源寺を建立して、開山に守天和尚を迎え菩提を弔ったという。
 山門脇に、正木利英の墓と戦没者の慰霊碑が建てられている。
 なお、都市計画道路の建設に伴い墓地が分断されたため、本堂は渡柳の地に移転している。

足袋蔵・奥貫蔵
 高源寺の前の古墳通りを北上すると左側に白壁造りの足袋蔵がある。
 行田は江戸時代の中頃から足袋作りが盛んとなり、最盛期であった昭和13年には年間8500万足、全国シェアのおよそ8割を占めていたという。
 足袋の原料や製品を保管していた倉庫が足袋蔵で、多くは明治の中頃以降に建てられたが、戦後ナイロン靴下の普及により足袋の需要も減少して倉庫の建設も途絶えたが、現在市内に90棟ほどあるという。
 9間×3間の2階建ての奥貫蔵は大きい方で、昭和初期に建てられたもの。

大澤蔵
 奥貫蔵の少し先左手にある。
 足袋蔵では唯一鉄筋コンクリート組煉瓦造りの2階建て。大正15年に建てられたもの。奥に明治末頃の足袋蔵があり、共に国の有形文化財として登録されている。
 足袋蔵のほとんどは外観のみの見学となるが、まちづくりミュージアムや店舗として活用しているものもあり、その利用範囲内では見られる。

行田八幡神社
 大澤蔵の先、アーケードのある商店街が始まる手前を右に入る。突き当りを左折するとすぐに行田八幡神社がある。
 度重なる火災に会ったため創建は明らかでないが、源頼義・義家が、奥州征伐の折、この地に滞在し、戦勝祈願のために建てたとも伝えられており、その後代々の忍城主より崇敬を受けてきた。現在の社殿は平成元年に竣工したもの。
 祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神、大物主神、神素盞鳴尊。虫封じ、癌封じ、ぼけ防止に効験があるということで、広く信仰を集めているという。  

十万石ふくさや行田本店店蔵
 八幡神社から先へ進み、郵便局を過ぎて125号に出ると右へ折れる。すぐ先道の反対側(左手)に十万石の赤い看板を掲げた白漆喰の重厚な店蔵がある。
 明治16年に呉服商の店舗として建てられたが、その後足袋蔵となり、昭和44年から現在の店蔵となっている。
国登録有形文化財。  

大長寺
 通りをなおも進むと忍川の手前右手に大長寺の露座の大仏が目に入る。
 大長寺は亀通山行田院大長寺といい、浄土宗のお寺。元亀・天正の頃(1570年代)の創建と伝えられ、のち忍藩主安部家九代の菩提所となり七堂伽藍も整っていたが、明治の初めに全焼したという。現在の本堂は昭和58年に再建されたもの。
 享保年間(1719〜1736)に建立された露座の大仏も、戦時中に供出されたが、平成7年に檀信徒によって再建されたが今の大仏。坐像の高さ3.6m、台座1.2m、総高7.4m。
 境内には、塩を手向け、お賽銭と線香を献じて祈ると、心の悩みを救ってくれるという珍しい塩盛地蔵尊があり、地蔵尊の前には沢山の塩が盛り上げてあった。

 大長寺を出たら元の国道125号線を駅前まで戻るが、今度は道路を渡って反対側を先ほどの童・銅人形の残りを愉しみながら戻ろう。

 時間に余裕があれば さきたま古墳群 を訪ねてみたい。また、花の時期なら古代ハスの里もお勧め。
 無料のレンタサイクルもあるので、これを利用すればすべて楽に廻れる(利用する場合は身分を証明するものが必要、小学生以下は貸し出し不可)。  




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