街歩き


鶴岡八幡宮から釈迦堂口切通しへ


2006.05.04歩く

コ ー ス  徒歩2時間
JR横須賀線鎌倉駅(15分)鶴岡八幡宮(7分)宝戒寺(20分)杉本寺(5分)浄妙寺(3分)鎌足稲荷(7分)報国寺(13分)釈迦堂口切通し(20分)妙法寺(10分)安養院(15分)妙本寺(3分)本覚寺(4分)大巧寺(2分)JR横須賀線鎌倉駅

800余年前、源頼朝が開いた武士の都鎌倉。鎌倉には源氏ゆかりの寺社や史跡が数多くある。一つ一つ歴史を紐解きながら訪ね歩くのは楽しいが、そのすべてを見て歩くにはとても1度や2度では歩けない。今回は鶴岡八幡宮から釈迦堂口切通しを経て大町のお寺を歩いた。

   

JR横須賀線鎌倉駅
鎌倉の玄関口鎌倉駅へは東京駅から55分。横浜駅からは25分。 ゴールデンウィークの快晴日とあって、さすがに駅頭は観光客で混雑した。

段葛
鎌倉駅を出て100mほど東へ行った信号のある通りが若宮大路。由比が浜から鶴岡八幡宮まで続く道で、寿永元年(1182年)源頼朝が、夫人政子の安産祈願のために作らせたという。
左折して北に向かうとすぐに二の鳥居。ここから三の鳥居までの間、真中に一段と高くなった桜と躑躅の並木道があり、歩道となっているが、これが段葛。もとは置石といわれ、玉石が敷き詰められていて、神や高貴な人の通る道とされていた。


鶴岡八幡宮
 源頼義が、康平6年(1063年)由比郷に京都の岩清水八幡宮を勧請して祀ったのが始まり。治承4年(1180年)頼朝が源氏再興を期して鎌倉入りしたときに現在の地に移した。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。
鎌倉観光のシンボル的な存在で、境内には国宝舘、県立近代美術館、ぼたん庭園など見るべきものが多い。
石段左の大銀杏は、3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていた銀杏といわれている。

宝戒寺
 先の横大路に出て東へ行くと突き当たりに宝戒寺がある。鎌倉幕府14代執権北条高時の屋敷の跡に、建武2年(1335年)足利尊氏が、後醍醐天皇を開基として建てた天台宗のお寺。本尊は貞治4年(1365年)銘のある地蔵菩薩像(重文)。
境内には四季折々の花が咲き、特に秋の白い萩は有名で、「かながわ花の名所100選」に選ばれている。   

杉本寺
宝戒寺を出て右へ道なりに金沢街道を東へ進む。左に鎌倉女子大が見えてくると程なく左手に杉本寺がある。

天台宗のお寺で、創建は古く、寺の縁起によると、天平6年(734年)光明皇后の命により、藤原房前と行基により創建されたとある。鎌倉では最も古いお寺で、坂東三十三観音の第1番札所となっている。
仁王門を入ると正面に本堂に続く石段がある。古く苔むした石段は歴史を感じさせるが、今はここには入れず、参拝には両脇の巻き道を上がる。

杉本寺本堂
本堂は鎌倉最古の寺に相応しく茅葺の素朴な建物だが、堂を取り囲む幟はどうだろう。本尊は最初は行基作の十一面観世音。次いで仁寿元年(851年)慈覚大師作の十一面観世音。そして寛和元年(985年)恵心僧都作の十一面観世音と3体の観世音が安置されているが、いずれも秘仏。現在正面にあるのは建久2年(1191年)に源頼朝が寄進した運慶作の十一面観世音。   

浄妙寺
杉本寺を出てさらに金沢街道を進むと左に小道を入って浄妙寺がある。
鎌倉五山第五位の寺格を持つ古刹。文治4年(1188年)足利義兼の創建で、 当初は密教系の寺院で極楽寺と称していたが、のち禅宗の臨済宗に改め、寺名も浄妙寺と改称した。
山門前の5層の石塔は、鎌倉五山の寺格を誇った下馬塔で、鎌倉期の形を良く残している。  

浄妙寺本堂
足利義満が鎌倉五山を制定した頃は塔頭23院があったというが、今は総門、本堂、客殿、庫裡など。本堂は禅宗の寺らしくすっきりしている。本尊は南北朝時代の釈迦如来坐像。境内は国指定史跡となっている。       

鎌足稲荷
妙本寺山門の脇から裏の山へ登っていくと小さな祠があった。これが鎌足稲荷で、側にあった由緒書きによると、藤原鎌足が乳児のとき、稲荷大神から鎌を授けられ、これをお守りとして常に身に着けていた。蘇我入鹿を討って大化の改新がなった翌年この地に来たとき、宿願を遂げたのだから授けた鎌をこの地に奉納せよとの神告があったので、鎌を舞納し、祠を営んでお祀りしたのが始まりとされている。鎌倉の地名の起源とも言われている。  

報国寺
 浄妙寺から金沢街道を少し戻って浄明寺バス停のところにある滑川に架かる橋を渡ると、すぐに右手に報国寺が見える。 建武元年(1334年)、足利家時(尊氏の祖父)の創建といわれる臨済宗建長寺派の寺。開山は天岸慧広(仏乗禅師)。本堂には釈迦如来像を祀る。  

報国寺竹庭
開山の慧広の死後、本堂裏手に開山を祀る休耕庵が建てられたが、今はその跡に孟宗竹が生え、「竹の庭」として知られるようになった。  

足利氏の墓
報国寺の裏山にある大きなやぐらで、足利氏の墓と伝えている。

報国寺を出てすぐ左の道を入る。「田楽辻子のみち」の標識がある。400mほどで左折して釈迦堂ヶ谷(ヤツ)を行く。北条泰時が父義時の一周忌のときに建てた釈迦堂が在った所からこの名がついた。  

釈迦堂口切通し
鎌倉は東西北の三方を山で囲まれ、南は海に面し、外からの攻めを防ぐには格好の場所であった。それだけに外部との往来には大変不便なところでもあった。そこで、鎌倉幕府が安定するとともに各所に出入り口が切り開かれた。それが切通しでここもその一つ。 掘り通されたトンネルは、苔むした山肌とともに古の姿を伝えるが、最近崩落の危険があるということで通行止めになっている。人は静かに立ち止まらないで。  

妙法寺
釈迦堂口切通しを下っていき、突き当りを右へ逆川の流れに沿っていく。途中左側へ橋を渡り民家の並ぶ中を行き、県道311号線に出る100mほど手前を左に入るとその先にある。
建長5年(1253年)、日蓮が法華経を広めるため安房からやってきて草庵を開いた跡と伝える。
その跡に護良親王の子日叡が、正平12年(1357年)に妙法寺を建立した。日蓮宗。  

護良親王墓
妙法寺の裏山を登っていくと山頂に大塔宮護良親王の墓があった。護良親王は後醍醐天皇の第3皇子。鎌倉幕府と対立し、新政府の足利尊氏を排斥しようと、楠木・新田・名和らと画策するが発覚し、東光寺に幽閉される。北条時行きが鎌倉を攻めた中先代の乱のおり、護良親王が北条の手に渡るのを恐れた足利直義によって殺された。墓は親王のお子である日叡上人によって建てられた。  

由比が浜
護良親王の墓の前からは鎌倉市外と由比が浜が一望できる。奥の半島が稲村ガ崎。

墓を下り元来た道を逆川に沿った道まで戻り左折して先へ進む。県道311号線に出て右へ行くと右手に安養院がある。
 

安養院
北条政子が頼朝の菩提を弔うために、長谷笹目に創建した長楽寺を鎌倉末期にここに移したもの。元ここに善導寺という寺があったが、長谷寺の移建のとき、寺名を長谷寺、院名を安養院(政子の法名)に改めたという。
浄土宗のお寺で、坂東三十三観音の第3番札所となっている。
 

安養院宝篋印塔
本堂の裏手に国の重文に指定されている、徳治3年(1308年)銘のある大きな宝篋印塔がある。
宝篋印塔とは、過去現在未来の諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔。鎌倉中期から作り始められ、鎌倉期のものは上から相輪が細かく、隅飾突起が直立(反っていない)、反花の彫りが重厚で、写真のものは隅飾突起が一部欠けているが、その特徴を良く表している。
この左に、北条政子の供養塔といわれる少し小さな宝篋印塔がある。  

別願寺多宝塔
安養院を出て先に進むと右手に別願寺がある。時宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来像。 本堂脇の墓地に大きな石造の多宝塔がある。足利持氏の供養塔といわれ、国指定重文となっている。

別願寺を出てさらに先へ70mほど、大町四つ角の信号のある一つ手前の通りを右折し、八雲神社、常栄寺(ぼたもち寺)の前を進む。やがて右手に見える大きな総門を潜ると妙本寺。
 

妙本寺
総門を入り、両側に民家の並ぶ長い参道を行くと二天門。そして正面に祖師堂。
このあたり比企ヶ谷といい鎌倉幕府の重臣比企能員一族が住んでいたところ。 比企氏は武蔵比企郡の出。頼朝の側近。娘を頼家に嫁がせ、頼家が将軍になると外戚として勢威をふるうが、それを恐れた北条氏により建仁3年(1203年)謀殺され、一族は滅亡する。(比企氏の乱)
 

妙本寺祖師堂
妙本寺は能員の末子能本が一族の菩提を弔うため建仁3年(1203年)開山に日朗(日蓮の弟子)を迎えて建立したもの。 境内には比企能員一族の墓とされる供養塔が並んでいる。また祖師堂内には日蓮、日朗、比企能員夫妻の像が安置されている。  

本覚寺
妙本寺総門を出て真直ぐ西に進み、滑川に架かる鎌倉十橋の一つ夷堂橋を渡ると本覚寺。永享8年(1436年)日出の開山による日蓮宗のお寺。本尊は釈迦三尊。他に日蓮像、日朝像を安置する。墓地には刀工正宗の墓がある。  

大巧寺
本覚寺の前の小町大路を100mほど北へ行き左へ路地を入ると大巧寺。
安産子育ての産女霊神を祀り、安産を祈願する人のお参りが多い。 広くはない境内には四季折々の花が所狭しと植えられており、それを愛でながら境内を通り抜けると若宮大路に出て、スタート地点の鎌倉駅はすぐ目の前だ。  

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