街歩き


相模国分寺の跡を訪ねて


2010.11.28歩く

コ ー ス  徒歩約2時間20分
小田急・相鉄海老名駅(15分)相模国分寺跡(20分)龍峰寺(7分)国分尼寺跡(10分)浅井の水(30分)相模三川公園(15分)有鹿神社(30分)安養院(13分)小田急厚木駅

 海老名は最初に相模国の国府が置かれたところ。近くに建立された国分寺は、発掘調査の結果武蔵国分寺に次ぐ全国第2位の規模と分かった。国分寺跡から国分尼寺跡を訪ね、相模川の岸辺を散策した。




小田急・相模鉄道海老名駅
 新宿から小田急急行で50分。横浜からは相模鉄道急行で32分で海老名駅。  

駅前中央公園
 駅を東口に出ると中央公園。その公園を取り囲むように大型ショッピングモールや映画館などが立ち並ぶ。
 公園の東端に七重塔のモニュメントが建っている。海老名は国分寺のあったところ。そこに建てられていた七重塔を海老名の観光のシンボルとし、実物大の3分の1の大きさで平成4年に建てたもの。

 公園を通り抜け、映画館の前の道を右へ行くと県道40号線に出る。これを左に行き、2つ目の信号のある国分坂下の交差点を渡り、左上へゆるやかな坂を上がって行く。

海老名の大ケヤキ
 交差点から200mほどで右手に、神奈川県指定天然記念物の「海老名の大ケヤキ」がある。根回り15m、目通り7.5m。高さはどれ位あったのだろうか。途中から折れたのか、切られていて、中は空洞になっている。
 このケヤキ、元は船繋ぎ用の杭として打ったものが発芽して成長したものと伝えられている。ということはこの辺りまで海だったのだろうか。

 ここを右へ入ると現在の国分寺。国分寺跡へは左へ道路を渡って北へ住宅街の中をしばらく行くと、右手にある。  

相模国分寺跡
 国分寺・国分尼寺は天平13年(741)、聖武天皇の詔により全国60余国に建立したお寺。当時は「青丹よし 奈良の都は ・・・」の歌や、「天平」の語感から、大変華やかな時代のように感じるが、実際は災害や異変がしきりに起こり、飢饉に見舞われたり、長屋王の変(729)や広嗣の乱(741)などがあり、さらには疫病が全国的に蔓延し、737年には権勢を誇った藤原4兄弟が相次いで亡くなるなど、世情不安な時代だった。
 (写真は、回廊と中門跡)

七重塔跡
 そこで、これらの不安を取除き、国家護持のため天皇自ら金泥の「金光明最勝王経」を書写し、全国の国分寺七重塔に納めたが、その七重塔も今では一つも残っていない。国分寺自体も当時の姿は皆無で、かろうじて跡だけ。中には跡さえ分からないのもある。平安時代以降地方豪族・武家の台頭、朝廷の権威の低下と共に衰退していったようで、官立ゆえの悲しさだろうか。

金堂跡
 伽藍配置は、中門を入って正面右に金堂、左に七重塔、中央奥に講堂、そしてそれらを囲むように回廊がめぐらせている。法隆寺式伽藍配置となっている。回廊の長さは、東西160m、南北240mで、武蔵国分寺についで全国第2位の規模だった。

 海老名市の歴史を知る資料館「温故館」は、国分寺跡西側に新たに建設中。(H22現在)

 金堂跡を北に出ると講堂跡。その間の道を東へ進むと県道407号線。ここを左折して、車に気をつけながら北へ進むとやがて相模鉄道の踏切を渡る。
 踏切を渡るとすぐ右へ線路沿いに行く。やがて左に分かれるゆるい坂道を上って行くと清水寺公園に入って行く。

龍峰寺
 清水寺公園を先に進むと、正面に龍峰寺がある。
 正式名を瑞雲山龍峰寺という臨済宗のお寺。本尊は十一面千手観音菩薩。
 ここは、元国分尼寺に隣接していた清水寺が元禄12年(1699年)に移転してきたところ。その後清水寺は廃寺となったが、昭和初期にこの地に移転してきた龍峰寺が、旧清水寺の観音堂を本堂として現在に至っている。

 この仁王門は、旧清水寺移建のときに建てられ、その後寛延4年(1751年)に再建されたもの。中に安置されている仁王像と共に市の重要文化財に指定されている。

観音堂(水堂)
 旧清水寺は、元国分尼寺に隣接してあった湧河寺が前身。建久5年(1194年)源頼朝が荒廃していた湧河寺を再建したが、その時堂前の枯れた池から清水が湧き出したので、寺名を清水寺と改名し、本堂(観音堂)も水堂として親しまれるようになったという。
 元禄12年にこの地に移建され、元文2年(1737年)に再建された。本尊の十一面千手観音菩薩立像は鎌倉時代の作で、国の重文に指定されており、すぐ後ろの収蔵庫に安置されている。

弥生神社
 龍峰寺の仁王門を出て右へ下りて行くと弥生神社に出る。折しも七五三参りの家族連れでにぎわっていた。

 急な石段を下り、参道を西へ進むと車道に出る。ここを左へ行くと右手に魚屋があり、庚申大権現入口の標識があるので、この角を入るとすぐ左に国分尼寺跡がある。

国分尼寺跡
 天平13年(741年)聖武天皇の詔により、国分寺と共に諸国に建立された尼寺。尼僧10人を配置し、水田10町が施入されていた。
 発掘調査の結果、南北に中門、金堂、講堂と並び、講堂の両脇に経堂と鐘楼を持つ伽藍配置と分かった。規模は国分寺より小さい。
金堂跡には庚申堂が建てられていた。  

浅井の水
 国分尼寺跡を出て西へ、小田急の踏切を渡り、右へカーブする道を道なりに行き、やや広い通りに出たところを左へ道なりに行く。最後のT字路を左に坂を下って行くと右下の道路の角に小さな池があり、きれいな水が湧き出している。
 源頼朝が荒廃していた湧河寺を再建したとき、その堂前の枯れた池から清水が湧き出し、清水寺(現在は龍峰寺)と改名した由来となったのがこの水と伝えている。

 浅井の水から西へ。JRの小さな踏切を渡り、次の信号を左へ、右手の工場のフェンスに沿って進む。左前方に海老名駅が見えてくる頃道が五叉路になっている交差点に着く。右から2番目のまっすぐ西に伸びる水田の中の道を行く。
 先の県道に出たら左へ行き、次の信号で反対側に渡る。そのすぐ先にコンビニがあるので、ここを右に入り、突き当たったところが河川敷に広がる相模三川公園。

県立相模三川公園
 三川とは、このすぐ下流で相模川に、中津川、小鮎川が合流していることから名付けられてようだ。

 広い河川敷には、芝生広場や野球場、子供の遊具などもあり、堤防上にはベンチも適度な間隔で備えられている。天気の良い日には、先ほどのコンビニでお弁当を買ってきてここで広げると良い。

 公園を出てすぐの車道を右へ行く。辺りは閑静な住宅街。やがて右手に有鹿神社がある。

有鹿神社
 相模国最古の神社といわれている。この地に農耕生活が始まると、その豊穣と安全祈願のために創建され、天智天皇3年(664年)に始めて神事が行われたと伝えている。
 江戸期には海老名郷5ヵ村の総鎮守となった。社殿は元和8年(1622年)に再建されたもので、天井に描かれた龍の絵と共に市の重要文化財に指定されている。

 有鹿神社の裏手から堤防上の道に上がり、相模川の流れを眺めながら下流に向う。
 この先に河畔公園があり、トイレもあるので一休みに良い。またあゆみ橋まで桜並木が続き、花の時期には賑わいそうだ。
 現在首都圏中央連絡自動車道の工事が行われており、道は迂回路をとることになる。

厚木の渡し跡
 大山参りの大山道が海老名から厚木へと通っていた。あゆみ橋の少し上流に渡しがあったが、明治41年に相模橋が開通して、この渡しは廃止された。
 この辺りが河原口の渡船場があったところ。

   あゆみ橋東詰に出たら左折する。200mほど進んで左に入ると安養院がある。

安養院
 正式には稲荷山安養院という曹洞宗のお寺。
 稲荷山というのは、昔この辺りに白狐がいて、郷中の田園を守護し、時には農夫に化身して災いを駆除していたという。里人はこれを神使として敬い、祠を建てて稲荷社として奉祀した。下って寛永年間に安養院開山に当たって、稲荷社を境内鎮守と仰いだことから稲荷山安養院と号するようになった。
 稲荷社は境内に入ってすぐ右にある。

 安養院を出て元のあゆみ橋からの道に戻り先に進むとT字路。これを右へ行くと間もなく小田急・JR相模線の厚木駅。




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