街歩き


紬の里・結城の城下町を歩く


2009.9.26歩く

コ ー ス  徒歩約1時間55分
JR水戸線結城駅(10分)銀屋・交流センター(3分)鍵田須賀神社(5分)称名寺(2分)孝顕寺(5分)結城酒造(2分)弘経寺(10分)奥順(1分)染織資料館手織里(15分)玉日姫の墓(12分)結城城跡公園(20分)慈眼院結城家御廟(20分)大輪寺(10分)結城駅

結城は近くを流れる絹川(鬼怒川)、蚕飼川(小貝川)の名からも伺われるように、古く万葉の時代から絹織物が盛んだった。古くは常陸紬として朝廷に献上していたが、結城紬として全国に知られるようになったのは室町時代に結城氏が幕府に献上してからである。

結城氏は初代朝光が1183年にこの地に入ってから18代秀康が福井へ転封するまでの凡そ400年に亘ってこの地を治め、町は結城氏の城下町として栄えていった。

紬と結城氏ゆかりの地を訪ね歩いた。さらに江戸末期から大正にかけて建てられた多くの見世蔵や、与謝蕪村の句碑めぐりも併せて楽しんだ。歩く時間は2時間足らずだが、ゆっくり見学したり、織物の体験などを加えると1日では無理だ。



JR水戸線結城駅
 結城駅へは上野から東北本線(愛称宇都宮線)で1時間15分で小山。小山で水戸線に乗換7分で着く。新幹線だと上野小山間は37分。水戸線の列車本数はは1時間に1・2本と少ない。

市民情報センター
 駅の北口を出るとロータリー右手に立派な建物が目に入る。市民情報センターや図書館、観光物産センターなどが入る市の複合施設だが、周りに大きな建物がなく、蔵の街のイメージできたため異様な感じを受ける。休日のせいかひっそりとしていた。
 入口左手にある観光物産センターで案内地図をもらってスタートする。

 正面道路に面したところに与謝蕪村の句碑がある。市内にはこのほか幾つもの句碑があり句碑めぐりをするのも楽しい。

見世蔵
 駅前から北に延びる蔵通り(県道結城停車場線)を行くと蔵造りの建物が見えてくる。店舗や住居として利用されている見世蔵と呼ばれるもので、市内には江戸末期から大正時代にかけて建てられたものがおよそ30軒ほどある。
 見世蔵めぐりコースも設定されているが、居宅などもあり一部を除いて表からの見学となる。

常光寺
 通りに面したところに阿弥陀如来座像が安置されている。このお寺金明山天照院常光寺という時宗のお寺で、永仁5年(1297年)、時宗2代他阿により建立されたと伝えられている。
 こうして道往く人を見守る阿弥陀如来、古くから「金仏サマ」と呼ばれ親しまれてきたという。いつからこうしてるのか。背中には無数の文字が彫られており、そこに永禄9年(1566年)に小山城主秀綱によって修復した旨刻まれている。  

健田須賀神社
 常光寺を過ぎて次の信号を右に健田通を行くと右に健田須賀神社がある。
 明治3年にこの地にあった須賀神社と市内健田の地にあった健田神社が合祀されたもの。須賀神社は仁治3年(1242年)結城家初代朝光の創建と伝える神社。健田神社は古代東国地方を平定したと伝える竹田臣の祖武渟川別命を祀り、延喜式にも記載される神社。祭神は武渟川別命と須佐之男命。
 7月の夏季大祭には大御輿の渡御もあり、結城の夏祭りとして賑わうという。

称名寺二条門
 神社を出て元の交差点まで戻る。この辺り見世蔵が数軒並ぶ。信号を渡って西へ向かう。武勇酒造の手前教会のあるところを左に入ると正面に称名寺二条門が見える。
 この門は、当寺20代の信覚(京都二条左大臣橘金明の弟)が19代信慶の婿養子となったときに京都二条家から移建されたものと伝えられている。寛永3年(1626年)に建てられたもの。
 門を入って右へ行くと本堂がある。

称名寺
 結城初代の朝光が真佛上人を開基として建立した浄土真宗お寺。真佛は親鸞聖人の高弟の一人で、平国香の血をひく真壁城主平春時の出家後の名という。
 境内に朝光の墓がある。

孝顕寺
 称名寺を西に出ると通りを隔てて孝顕寺がある。
 正式には、天女山永正禅林泰陽院孝顕寺という長い名だが曹洞宗のお寺。永世12年(1515年)結城家15代政朝による創建。当初城の西玉岡の里に建てられ、永正寺と言っていたが、慶長4年(1599年)18代秀康により現在地に移転し改称されたという。

追分道標
 元に戻って先程の通りを北へ向かう。右手にあるのが武勇酒造。突き当りを左、右と進む。この辺りの道路は昔の面影を残す城下町特有の鉤型の道路となっている。
 次の交差点の角に石燈篭造りの道標がある。

結城酒造
 追分道標を左へ行くとすぐ右手に結城酒造がある。建物の中を覗いたが人の気配が無い。壁や屋根瓦が今にも落ちそうで、営業しているように見えなかった。
 しばらくしたら近所の方が声を掛けて奥さんに取り次いでくれた。内部を案内してもらった。結城酒造は安政6年(1859年)の酒造鑑札を持ち、建物もその頃のもので、国の登録有形文化財に指定されている。今も伝統の製法を守り、冬季のみ細々と製造しているとのこと。

結城酒造
 ついでに大吟醸・富久福を試飲させてもらった。すっきりとした美味いお酒だった。数が少なく広く出荷はしていないようだ。  

弘経寺
 結城酒造を出てすぐ右隣が弘経寺。
 文禄4年(1595年)、結城家18代秀康がその息女松姫の追善供養のために建立したと伝える浄土宗のお寺。浄土宗の学問所である関東十八檀林の一つに数えられている。
 ここには俳人与謝蕪村がしばらく滞在し句作を行った。当寺境内をはじめ市内数箇所に蕪村の句碑が建てられている。また滞在中描いたという襖絵が残されており、県文化財に指定されている。  

郷土館
 弘経寺の東門を出て金福寺、光福寺などの寺を見ながら進み蔵通りに出る。ここを右折。次の信号のある大町の交差点の少し先に本場結城紬・郷土館がある。結城紬の歴史や製作工程、道具などの資料が展示されているほか、地機織の実演や体験もできる。  

奥順
 郷土館を出たら大町の交差点を右(東)へ進む。この通り「つむぎ問屋とおり」と呼ばれていて、古くからの問屋の見世蔵が並ぶ。
 向こうが製造卸の奥順(株)の見世蔵。手前がキヌヤ薬店。

つむぎの館
 奥順から東へぐるっと回り込み1本北の通りを入る。ちょうど奥順の裏側になる。ここは奥順の経営する施設で、古民家を移築した陳列館には結城紬の数々を陳列する。他に織体験のできる織場館。小物などを販売する売店もある。結城紬は手織りだと1反100万円は下らないという。1反織るのに3ヶ月はかかると言うから無理もないが、とても手がでない。

染織資料館・手緒里
 同じ敷地内にある資料館。製作工程が詳しく紹介されている。また、実際に使われている多種多様な道具類や、結城紬に関する古文書、紬の柄の変遷なども展示されている。入館料は200円。

築地塀
 つむぎの館を出て北に向かう。1本北の通りに真白な築地塀があるがこれは結城市役所。これから道なりに北東へ。小公園を過ぎると玉岡通り。左の築地塀の中は結城小学校。塀の下にお城の堀を思わせるような溝があり風情があるが、残念ながら水は無かった。
 この道をさらに道なりに行き、結城用水を渡って少し行くと左の田圃の中に玉日姫の墓がある。
玉日姫の墓
 玉日姫は関白九条兼実(1149〜1207年)の七女で、浄土真宗の祖親鸞聖人の妻となった人。越後に流された親鸞が赦されて関東に来て布教活動をしたとき、同じく関東に下り、自ら剃髪して親鸞を助けたという。その後親鸞は京に戻ったが、玉日姫は親鸞の教えを広めるため結城に残り、ここに草庵を結び生涯を送ったと伝えている。
 玉日姫の墓から元の県道204号に戻り、なおしばらく先に進むと右手にこんもりとした森が見えてくる。結城城址で、県道脇に広い駐車場があるので、ここから入る。

結城城址
 結城氏は寿永2年(1183年)、下野の大掾小山政光の3男朝光が戦功により源頼朝から結城郡を与えられ結城氏を名乗ったことに始まり、この地に城を構えた。以後400年、結城は結城氏の城下町として発展していった。
 しかし、6代氏朝が嘉吉元年(1441年)の結城合戦で敗れ結城氏は一時断絶。後氏朝の子成朝が家を継ぐことを許され再興した。
 天正18年(1590年)家康の次男秀康を養子に迎え18代を継ぐが 、関ヶ原戦後福井に移封となり、ここに結城氏の支配は終えた。

結城合戦
 永享の乱で室町幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏は敗死したが、遺児春王・安王は下野に逃れた。鎌倉公方方であった結城氏朝はこの春王・安王を擁して幕府側の上杉憲実らと戦うが、嘉吉元年に結城城は包囲され落城。氏朝は自刃。直前に春王・安王は女に身をやつして落ちさせるが、途中で発覚し捕えられ、京へ送られる途中美濃で斬殺される。このとき春王は13歳、安王は11歳だった。岐阜県垂井に二人の墓がある。
 城跡は現在城址公園となっている。  

慈眼院結城家御廟
 城址を南へ。堀跡と思われるところに架かる三日月橋を渡りさらに進み突き当たりを左へ。次の角を右へ行き突き当たりを左に田圃の中を下っていく。山裾の突き当りをV字型に折り返すように畑の中の道を上がっていくとやがて松月院の屋根が見える。そのすぐ手前右に入ったところに小さなお堂があり、20基の五輪塔がロの字型に整然と並んでいる。初代朝光から16代政勝までの16基と他4基で、ここに建てられたことについては諸説があるようだ。ここはかつて慈眼院という曹洞宗の境内だった。

大輪寺
 結城御廟を後に結城17代晴朝開基による曹洞宗のお寺松月院を見て南へ向かう。突き当たりの道を右へ向かう。結城一高のグランドを右に見て結城用水を渡り、のどかな田園の中の道を西へすすむ。やがて街中に入ると右手に大輪寺が現われる。真言宗豊山派のお寺で、結城家の祈願所となっていたところで、当時は末寺を22ヵ寺持つ大きな寺院だったいう。
 ここを過ぎて街中の道を西へ行けば駅近くの蔵通りに出る。

赤沢・ちたけ入り茄子せいろ
 お昼は町の人に教えられた問屋街近くの「そばや赤沢」で食べた。ご主人自慢の「ちたけ入り茄子せいろ」。炒めたちたけと茄子の入った温かいつゆにつめたいそばをつけて食べる。そばもつゆも美味かった。ちたけとは「乳茸」と言い、切ると乳のような液が出るところから呼ばれているもので、数少ない茸だと教えられた。




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