街歩き


千姫ゆかりの地を訪ねて水海道を歩く


2010.11.11歩く

コ ー ス  徒歩約2時間20分
関東鉄道水海道駅(7分)二水会館(7分)絵画の道(18分)冨山倉庫(3分)豊水橋(15分)安養寺(35分)弘経寺(15分)法蔵寺(40分)北水海道駅

 水海道は名前からも想像できるように、江戸時代鬼怒川の水運で栄えた町。街道筋には蔵造りの町家や土蔵、煉瓦や大谷石の蔵など当時の面影が残されている。ここから関東十八壇林の一つであり、千姫の菩提寺でもある弘経寺を訪ねる。




関東鉄道常総線水海道駅
 上野から常磐線快速で40分で取手駅。ここからのんびりとジーゼルカーにゆられて28分で水海道駅に着く。  駅前広場を左に行くと観光案内所があるので情報を得ていくのが良いが、平日は係員外出で閉められているときがある。

二水会館
 駅前の357号線を左へ行き、信号を渡った少し先を左に入ると図書館があり、その敷地内に白い瀟洒な建物がある。
 大正2年(1913)に旧水海道町役場として建てられたもので、洋風のホールやバルコニーを備えて、当時は町のシンボルとなっていた。内部は北側に和風の部屋、南側に洋室があったが今は無くなっている。外観は2階作りだが実は平屋。  鬼怒川・小貝川の2河川にちなんで二水会館と名づけられ、昭和59年に移築保存され、国の登録文化財に指定されている。

絵画の道
 再び駅前に戻り、正面の室町の通りを行く。この道、絵画の道と名付けられ、カンバスに描かれた多くの絵が店先に展示されているので楽しみつつ行く。ただ、最近は諸般の事情で展示品が少なくなっているという。

北川質店
 明治初期に開業した老舗で、当初は米・肥料・建材などを商っていたが、戦後3代目が、質屋を開業した。高品質の大谷石造りの倉庫と土蔵造りの家屋は開業当初のもの。、  

北川質店2
 通りに面した土蔵造り二階建ての店舗は昭和12年の建築。電話番号はその頃のものだろうか。

 絵画の道を通り抜け、突き当りを左折すると栄町。街道筋に面したそこここに蔵造りの町家が残されている。
 栄町の通りを進むと鬼怒川と平行する本町通に出る。ここを右折する。

冨山倉庫
 江戸時代末期、水海道は鬼怒川の水運で栄えた。ここには5ヶ所の船着場があり、1日100艘もの高瀬舟が江戸との間を往来したという。
 冨山倉庫は明治4年に3棟の倉庫を建て、米穀・呉服・肥料・荒物・醤油・酒など多くの荷物を取扱っていた。大正2年の常総鉄道の開通により、荷物は鉄道便に移り、船便は衰退したという。今は自動車運送業を営んでおられる。

冨山倉庫2
 常総地区で、明治期の木造大型倉庫の代表的建物。木造平屋で、土台が石と栗材。棟木などは松材のため、湿気のある河岸でも多量の貨物を安全に保管することが出来たという。

 今は、オーナーがここでそば打ちをやったり、手作りのバーを置いて、時折近くの仲間が各々飲み物を持ち寄り、楽しく語らうという。

五木田邸レンガ蔵
 冨山倉庫の少し先にある。赤いレンガ造りの立派な蔵は、幕末から明治期にかけての繁栄振りを伺うことが出来る歴史的建造物だ。

   右にレンガ蔵をみてすぐ先で国道354号に出る。ここを左折して豊水橋で鬼怒川を渡る。

鬼怒川
  この時期は、利根川に鮭の上ってくる時期である。
 赤松宗旦の「利根川図志」によると、利根川の鮭は布川(茨城県利根町)で獲れるのが最上で、布川までくると塩気は全くなくなり、魚も肥えて脂がのり、肉の色も紅そのもので、味も素晴らしいという。これからさかのぼると、鮭も疲れ、肉の色も味も落ちてしまう。
 鮭は今は日光までさかのぼり、ここで捕獲して卵を取り出し、人工孵化した上で稚魚を放流している。
 したがって、ここでは鮭の捕獲は禁止されているのだが、盛んに針に引っ掛けて釣り上げている人がいた。

絹川
 豊水橋を渡り、右岸の堤防上の道を上流に向う。
 鬼怒川は古くは絹川、あるいは衣川と書かれていた。時折暴れるので「鬼が怒れる川」と書かれるようになったのは当て字で、明治以降とのこと。しかし、この水面を眺めていると、流れているのか、いないのか、まことに穏やかで、古い絹川の語がピッタリだと思うのだが。
 遠くの山は筑波山。

 目的地弘経寺までの道の角々には分かりやすい道標がある。あと○○kmと距離も分かるので励みになる。

 この道標から堤防を離れ少し行くと右手に不動堂があり、さらにその先に安養寺がある。  

安養寺
 正式名称を無量山清雲院安養寺という浄土宗のお寺。はじめ、鎌倉時代の正応元年(1288年)横曽根村坂巻に創建された文秀院を、南北朝時代の応永4年(1397年)に横曽根城主の羽生氏経が同村志部に移し、寺号を安養寺に改めたという。その後寛文年間(1661〜1672年)の鬼怒川改修工事のときに現在地に移された。
 本尊は阿弥陀如来。ほかに観世音菩薩、勢志菩薩を祀る。

 本堂北側に、西国、坂東、秩父を合わせた百観音石像と普陀洛山観世音石像があり、いまも多くの人がお参りしている。
 また、本堂前にある枝垂桜は、「称名桜」と呼ばれる樹齢300年の古木。

 安養寺を出てのどかな田園風景を楽しみつつ先に進む。やがて工場団地の中を行くようになる。

 道標に導かれ、弘経寺大門から長い参道に入り、左右に製紙会社を見ながら進む。

 道はやがて国道354号線(バイパス)の下を潜る。
 隧道の壁には、地元幼稚園の園児や、小・中・高校生が共同で描いた壁絵が描かれており、ここまで歩いてきた疲れを和ませてくれる。
 隧道を出るとしばらくで前方に弘経寺が見えてくる。

弘経寺
 正しくは、寿亀山天樹院弘経寺と言い、室町時代応永21年(1414年)嘆誉良肇上人の開基による浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀如来。
 当寺は天正5年(1577年)、下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏との合戦の折焼失するが、江戸時代になって第十世照誉了学上人が、徳川家から莫大な寄進を受けて再興、浄土宗の僧侶養成機関としての関東十八檀林の一つとなる。

千姫の墓
 本堂の左奥に第2代将軍徳川秀忠の女千姫の墓所である天樹院殿御廟がある。千姫は了学上人に深く帰依し、ここを菩提寺として多大の寄進をし、再興に貢献したという。千姫の御殿を移築した大方丈もあったが、明治39年に焼失した。千姫は寛文6年(1666年)70歳で逝去。遺体は小石川伝通院に埋葬されたが、ここには遺髪を埋葬したいう。寺には千姫姿絵をはじめ千姫愛用の品々が伝えられている。
 弘経寺を出て左(東)へ行き、きぬ幼稚園の先を左へしばらく行くと右手に法蔵寺がある。

法蔵寺
 羽生山往生院法蔵寺といい、文禄年間(1592〜1595年)開基の浄土宗のお寺。山門は山寺の雰囲気を漂わせ、秋の午後に静かに佇んでいた。
 ここには、有名は「累の墓」がある。累の物語は、江戸時代初期にあった実際の物語として伝えられている。
 寺の説明板によると、羽生村の百姓与右衛門の後妻「すぎ」は、夫との不仲を怖れ、醜く生まれついた「助」という連れ子の男子を殺してしまう。その後に生まれた「累」は助に生き写しであったため  
「かさね」と呼ばれた。心優しい娘に成長した累は、旅に病む他国者を助け、婿に迎えるが、やがてその醜さゆえに疎まれるようになり、2代目を名乗る婿与右衛門によって鬼怒川で殺害される。その後与右衛門には不幸が続き、そして死霊が後妻との間に生まれた娘「きく」に取り付き苦しめたため、飯沼弘経寺にいた祐天上人が法力をもって解脱したという。
 後に歌舞伎、講談、浄瑠璃などで広く知られるようになった。
 境内にある墓は、中央が累の墓、右が助の墓、左がきくの墓。

 山門を出て元の道を南へ下る。周辺は工場団地。やがて354号バイパスに出るので、信号を渡って左へ。鬼怒川に架かる有料橋(徒歩は無料)を渡り、すぐ先の交差点を右へ行くと北水海道駅への入口がある。

北水海道駅
 単線の無人駅。ここから再びのんびりと車窓の風景を楽しみながら取手駅に戻る。




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